158 98.02.01 「違和感を携えながら」

 ついに時流に押し流され、不釣合この上ない携帯電話などといった代物を購入してしまったのだが、予想通り、やはりどうにもぎこちない。街角で携帯電話を手にしていると、道行く方々にはさぞかし不似合な姿に映っているのだろうなあ、などと考えてしまう。世間が私などに興味を抱くはずはないのだが、ついついそういった益体もないことに思いを馳せてしまうのであった。
 歩道に立ち止まってどこか遠くにいる誰かに話しかけている己の姿を想像すると、なんともはや見苦しい。苦笑が浮かぶ。他の方々の同様のお姿にはなんの違和感も覚えることはないのだが、こと自分となるとやはり似合わない。なぜ自分だけをそう決めつけるのか、そのあたりの心理経過がいまひとつ理解しかねるが、とにかく違和感だらけだ。電話会社を選ぶ際にNTTドコモはハナから念頭になかったあたりにその傍証が潜んでいる気もしたりしなかったりするが、結局のところ自分のことは自分にはわからない。
 自分がわからないのはちっともかまわない。生活していく上では無用の事柄である。しかし、我が所有物となった携帯電話の使い方がわからないのは、たいへん困る。使うために買ったのに、使えないのである。私は使えない奴としてここいらじゃ知らない者はいないが、だからといって使えないものを蒐集する趣味はないのである。
 学ばねばならない。
 1.3秒以上押せ、とマニュアルは語るのであった。そのボタンを1.3秒以上押し続けるのと1.3秒未満押すのとでは、まるっきりその結果が違うのであった。
 あまたの機能を数少ないボタンに割り当てようとすると、必然的にそうした展開になるのであろう。シフトキイやコントロールキイを押しながらというような、キイコンビネイションという手法は、片手で操作する携帯電話には馴染まない。一時に押すボタンはひとつでなければならない。そこで編み出されたのが「押し続ける」という手法であったらしい。
 押し続けていると身に染みて実感するのだが、1.3秒はたいへん長い時間である。待つ身にとっては、じれったい。こうしている間にも、カップ麺ができあがってしまうのではないか、と思う。この貴重な時間が経過する間に、アメリカ合衆国大統領が辞任しドルが暴落しているのではないか、とも思う。それほど長い。操作が完了したときには、次になにをすべきかすっかり忘れている。
 おそるべきことに、「押し続ける」ばかりではなく、お馴染のダブルクリックという手法も同じボタンに割り当てられているのであった。マニュアルは、ダブルクリックとは語っていない。「二回押す」である。どちらでもいい。もはやこの時点で、そのボタンに割り当てられた三つの機能を区別できない。そういうボタンが何種類かあるのだ。とても憶えきれない。
 憶えきれない以前に、悔し涙が滲んで、ボタンに描かれた文字が見えない。
 私はこの社会に適応できない。その証拠をつきつけられた私は、すっかり諦めの境地に達し、その一方で激しい後悔に苛まれるのであった。
 わかっている。私が使いこなそうとしている機能は、特に必要があるわけではない。ほんの少しの操作を会得すれば、初期値のままで電話として充分に活用できることはわかっている。私達の脳がそうであるように、携帯電話だって使われる機能はほんの一部分である。
 しかし、すべてを熟知しなければならない性癖が邪魔をする。全ての機能を把握した上で自らの判断に基づいた取捨選択のふるいにかけないと、先へは進めない。そんな煩わしい性が、疎ましい。最後には、必要な操作はほんの少しという誰もと同じ結論に漂着するのだが、寄り道をすべて確認しないと、どうにも立ち行かないのであった。
 そうして、誰に電話をかけるつもりだったのかさえわからなくなってしまう。木枯しの中で、私は立ちつくす。街角に佇み、けして手にしてはならなかった携帯電話という名の異物を手にして、途方に暮れる。幼馴染みの違和感が、私を呪縛する。逆らえない。私は溜息をついて、公衆電話を探す。その前に立てば、誰に電話をするつもりだったのかを思い出せるのではないか。そんな儚い望みを傷心に抱えながら。
 結局、私は携帯電話を片手に公衆電話をかけ、通りすがりの女子高生に失笑されるのであった。

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