141 97.10.04 「目立たないような。」

 「○○みたいな。」の評判が芳しくないらしい。
 私もついうっかり使ってしまうのだが、やはりこのへんで悔い改めるべきではなかろうか。どのへんだかはさっぱりわかっていないが、んんと、このへんかな。きゃっ、そこじゃないわ、ココよ。などと一人二役でおちゃらけてみても虚しいだけの、今はもう秋。
 「○○みたいな。」が不評を醸している背景には、述語が省略されてそのあとが続かない点に主因がある。「みたいな、なんだよっ」と、思わずツッコミを入れたくなる、という声はたしかにある。そうした衝動を抱かせるのが敗因だ。たとえ少数であれ、誰かを苛立たせている。「○○みたいな○○」がまずいのではない。「○○みたいな。」がまずい。そこで止まってその先がないのが、どうも誰かの癇にさわっている。
 この仮定を立証するべく、私は孤高の運動を始めるに至った。言い換え、という古来より伝承された手法だ。「○○みたいな。」と言いたくなったら、すかさず「○○ような。」と言い換える。
 「みたいな」自体に罪はなく、述語の省略という構造こそに不評の原因が潜んでいる。「○○ような。」を使用することで、このあたりのシンジツを浮き彫りにしてやろう、という試みである。
 とはいえ、この運動はなかなか世間に認められないのであった。その存在でさえも、誰ひとり気づいてくれないのである。ぐすん。
 「ような」は、どうにも目立たないのであった。文語であろうが口語であろうが、ちっとも目立たない。陰働きが似合う役回りなのであった。出る杭は打たれるというような際だった個性が微塵もない。ね、いま、目立たなかったでしょ。まわりの言葉に馴染んで埋没してしまう。「ような」だけが浮き上がって、愛敬を振り撒いたり害毒を撒き散らしたりといった場面にはならない。あくまでひっそりとつつましやかに暮らしている。座敷童のような。と、いうふうにあとを続けずに止めてしまうと、少しだけその存在を主張するが、ここで格助詞「の」の救援を仰がなくちゃならないところが、やっぱり弱い。
 座敷童みたいな。と書いた方が、確かに引っかかるもんなあ。「みたいな。」は、なんにでもくっついちゃう。動詞だろうが形容詞だろうが名詞だろうが、平気でへばりついてしまう。パートナーを選ばない。使い勝手がよすぎる。難敵である。
 日常会話ともなると、更に困難は深まっていく。
 「○○みたいな。」と言いたいところをぐっとこらえて、「○○ような。」とあえて口にする。だが、私のその葛藤がなかなか理解されない。聞き流されてしまうのだ。「○○ような。」は、耳に引っかかりにくいことこの上ないのであった。
 私が発言した瞬間に相手が違和感を覚えて会話がそこで停止する、という私が望んだ展開にはならない。会話は滞りなく続いてしまう。
 なんということだ。私はぐっとこらえているのである。こらえた「ぐっ」が溜まりに溜まっているのである。いったい、この「ぐっ」をどうしてくれるのだ。
 こだわりに気づいてもらわねば、私の立つ瀬がないではないか。やむを得ない。非常手段だ。
「○○ような~。」
 語尾を伸ばすのだ。「○○みたいな。」でも頻繁に使用される手法である。
 しかしやっぱり話し相手は気づかないのである。
「な~~。」
 私の語尾はまだ哀しく伸びる。相手はやや怪訝な表情を見せるが、やはり私の意図は伝わらない。
「~~~。」
 私の目に口惜し涙が滲むが、相手は会話の先を急ごうとするのである。私の孤高の運動が実を結ぶことはない。けして、ない。断じて、ない。
 もはや、万策尽きた。
 わかったわかった。いいよ、もう。「○○みたいな。」にはもう敵わない、みたいな。

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