138 97.09.21 「B定食哀歌」

 余談ですが、おかずとごはんの摂取をいかにしてほぼ同時に完了するかという問題については、北条氏康以来、様々な研究や考察が重ねられてきました。先人の偉大なる業績に対しいささかも異議を唱えるものではありませんが、このたびあえてこの主題に対峙するに至った背景には、ある定食との邂逅があったのです。
 吉野家の納豆定食が私に問題を投げかけています。私も昔日には「吉野家と寝た男」と後ろ指をさされた過去を有する破廉恥漢です。納豆定食のひとつやふたつ、なにほどのことがありましょうか。みっつは食えませんが、ここはひとつ、挑戦を受けて立とうじゃありませんか。
 納豆定食は吉野家のメニュー戦線においてはモーニングとして位置付けられています。モーニング・サービスだろ、略さないでちゃんと言えよ、などと、いつまでも融通のきかない頭を振りかざしてもしょうがないでしょ坂本くん。定食の話をしているときにモーニングという単語が出てくれば、朝食時の時限サービスに決まっています。ちなみに、私の友人であるところの坂本くんは性格わるいです。
 吉野家の場合、納豆定食の他には焼魚定食があります。ここでまず納豆定食を選択するところから私達の苦難は既に始まっているのです。
 吉野家では注文する品について思い悩んではいけません。普通は席につく前に注文します。いくら遅くてもお茶が出る前に注文するのが流儀です。さあ、注文してみましょう。
「納豆定食」
 すると、思いもしなかった展開が待ち受けています。
「B定、一丁っ」
 店員は厨房に向かってそう叫ぶのです。
 厨房の奥から谺が帰ってきます。「へい、B定、一丁~っ」
 最初に耳にしたときには驚きました。どれくらい驚いたかというと、思わず即死してしまったくらいです。あわてて生き返ってメニューを振り仰いでも、「A定食」「B定食」といった区別はありません。あくまで、「焼魚定食」と「納豆定食」です。
 納豆定食を注文しただけで、いきなりBとランク付けされてしまうのです。これまでのささやかな人生の全てを賭けて注文した納豆定食は、実はB定食だったというのです。信じられるでしょうか。たしかに納豆定食のほうが30円安いのですが、とうてい納得できるものではありません。Bです。Bになってしまったのです。上にAがあるんです。私の誇りは、ずたずたです。ま、オレはマイペース型だからBでいいや、生真面目なAなんか御免だぜ、などと変なアナロジーで無理矢理に自分を慰めようとしている場合ではないのです。
 しかしそこは吉野家で、客が納得しようがしまいが瞬く間に目の前に注文の品が並んでしまいます。お茶を飲む暇すら与えてはくれません。吉野家に入ったということはつまり時間的な余裕があまりないということですから、それはそれで結構なことで、B定食が心に与えた傷を忘れてとにもかくにも食べなければなりません。
 納豆、生卵、味付け海苔、おしんこがおかずの黄金カルテットです。ここに味噌汁とごはんが加わって、めでたく納豆定食370円の誕生です。断じて、B定食ではないのです。いいですか。ないのです。
 食べる前に若干の作業が生じます。辛子の封を切る、味付け海苔の封を切る、納豆及び生卵に醤油をかける。こうした一連の儀式の間に、素早く戦略を立てることが肝要です。漠然と納豆を掻き回している場合ではありません。目の前のおかずとごはんの量を適確に見極め、ペース配分を組み立てる貴重な時間です。これから始まる朝食物語に臨んで、綿密な工程表を脳裏に作成しなければなりません。
 この段階における段取りを誤ると、取り返しのつかない事態が待ち受けています。
 ごはんがまだ残っているのにおかずをすべて消費してしまえば、味噌汁を投入して猫と化す屈辱に身を焦がさねばなりません。それだけならまだしも、粗忽を極めて味噌汁も既になくなっているとこれは大変です。本来は牛丼のために用意されている無料の紅生姜に手をつけるしかありません。定食を注文したのに紅生姜。五七五。定食を、注文したのに、紅生姜。人として越えてはならない一線です。他の牛丼愛好客の無言の非難があなたを苛むのです。これはもう、いたたまれません。
 はたまた、ごはんを食べ尽くしたのにいくばくかのおかずが残っているという不祥事も、けして招いてはなりません。おかずはごはんが存在してこそ、まばゆい光彩を放つのです。「おかずは月、ごはんは太陽」という格言もあります。ごはんなくしておかずは存在し得ないのです。ごはんを失った納豆はおかずではありません。納豆です。実にどうも、納豆なのです。納豆だけを啜り込む愚を犯す勇気が、いったいあなたにあるのでしょうか。それは恥しいことです。他の牛丼愛好客の冷ややかな視線があなたを貫くのです。これはもう、身の置き所がありません。
 こうした敗北を喫しているようでは、あなたの将来は知れたものです。人生の敗残者とならないためにも、事前の緻密な戦略立案だけは、ゆめ怠ってはなりません。
 吉野家の納豆定食は、総体的におかずの比重が過剰です。この点を心にしっかりと刻みつけて箸をとりましょう。ごはんのおかわりは可能ですが、やむにやまれぬ事情がない限り外界からの関与は排除したいものです。定食のお盆は、一個の小宇宙です。ただそれだけで完結する定食を尊ぶのが、定食時代を生きる者として必須の心得といえましょう。
 ようやく食べ始めるわけですが、御存じの通り世の中は思い通りにはいかないものです。束の間の朝食でも、それは例外ではありません。不慮の事態が勃発し、あなたの工程表が根底から覆ることもあながちありえないことではありません。そんなときにいかに冷静に状況を把握しいかに素早く戦略を立て直し得るかで、あなたの評価が定まります。世間は見るべきところは見ているものです。あなたの器量が問われています。厨房でガス爆発が起こる、店内に暴走したトラックが突っ込んでくる、といったやむを得ない事態を除いては、自らの裁量で困難な局面を打開しなければなりません。
 たとえば、納豆によるごはんの過剰な消費が最も犯してしまいがちな過失です。これは納豆定食という大舞台を経験した者なら誰しも一度は体験する陥穽で、古来より数多くの犠牲者を出してきました。納豆に心を奪われて、ついつい多くのごはんを食べてしまうのです。納豆定食の名に幻惑されるのではないか、といった学説もあるようです。酷い場合には、すっかり自分を見失って納豆以外のおかずには手をつけなかったという事例も見受けられるようです。同情の余地があるとはいえ、たいへん醜い仕儀といえましょう。
 常にお盆の全体を視野に入れて食事を推進することの重要性を物語る挿話です。
 他にも、おしんこの消費状況、生卵投入の時機、味付け海苔の適確な導入、味噌汁の温度把握など、絶えず目を光らせていなければならない事柄は多く、気の休まる暇はありません。
 こうした一連の作業を終えたときには、あなたは一回り大きくなっているはずです。そっと箸を置く仕草にも、あなたの成長ぶりが窺えるというものです。
 すべては終わりました。
 静かに席を立ちましょう。
「B定食ですね。370円です」
 店員の心ないそんな言葉にも、もはやあなたの心が揺らぐことはないでしょう。今のあなたならば、穏やかな気持で代金を支払うことができるはずです。あなたは納豆定食を制覇したのです。この先どんな辛いことがあっても、この体験を思い起こせば何事も乗り切れることでしょう。
 さあ、今日も一日、元気で働きましょう学びましょう遊びましょう。
 余談ですが、私が食べるはずだったのにいつのまにかあなたが食べていたこの話の展開については、私には何も訊かないでください。特に坂本くん。

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