112 97.06.18 「もらう考」

 病院で薬をもらう、とは、変ではないか。変だと思う。ぜったい、変だ。ええ、変ですとも。
 治療費の一部が薬代なのである。保険から大半が支払われているとはいえ、薬を買っているのである。もらっているのではない。
 なぜ、もらうという言葉が登場するのだろうか。やはり医療行為はありがたい、といった気分が反映するからか。
 病気をもらうという表現もある。感染した場合、どういうものか、病気をもらうと言う。病気をもらうと、薬をもらいにいかねばならないのである。
 そのものズバリ、モノモライという病もある。オノレには一点の非もないのだ、という言外の主張が感じられて、味わい深い病名だ。もらってしまったのだ、オレは悪くない、といった声が聞こえてきそうだ。実際のところ、モノモライは大変である。どのくらい大変かというと、モノモライになったモアイを想像すればすぐわかる。大変なことなのだ。
 もらう、ってのは、どうも怪しい。明らかな因果関係を物柔らかく包みこんでぼかしてしまおうとする時に出番が回ってくる。もらい乳、もらい湯、もらい水なんてあたりがそうではないか。もっとも、水が火に入れ換わるとこれは一大事で、もらい火とはつまり類焼だ。だが、もらい火とても、火の粉を振り撒いた相手を恨むという姿勢があまり感じられない。ぼかしている。もらい事故も、この一派か。
 ぼかすというのでは、もらい年が巧みだ。厄年に当たる人が実際の年齢より多い年を言うというやつだが、こういう場面にももらうは顔を出す。
 一方、伴う目的語によって、もらうは嫌なやつに変貌したりするので、奥深い。たとえば、嫁をもらうがその代表だ。この場合、もはや嫁に人格はない。もらい手がない、ってやつも同じ根から出ている。人身譲渡ではないか。まあ、もらうが嫌なやつなのではなくて、嫁という言葉自体がもともと気持悪いわけだが。
 休暇をもらう、というのも嫌な感じがつきまとう。権利などという概念を持ち出す以前に、どうも背中がむずがゆい。休暇をもらうから休をとっぱらうと、暇をもらうとなって意味が激変したりするが、どっちにしろ、本来もらうもんではなかろうと思う。そこらへんが、嫌な感じの原因か。
 感情ももらったりする。もらい泣きというのがそれだ。涙を誘うわけだが、この感情の伝染をもらうと表現すると妙にわかりやすいので不思議だ。もらい笑いも同族だが、この心理の行き着くところが、もらいゲロということになろうか。人のゲロ見て我がゲロを吐く、というアレだ。心理学は、もらいゲロの研究を突き詰めて欲しいと思う。
 なんだか、もらうとなると全体的にどうも威勢がないが、例外的にこの勝負はもらった、は元気があってよろしい。活用して破裂音を伴ったのが勝因だが、やはり物事は積極的にいかないと駄目だ、ということか。
 今度病院へ行ったら、この薬はもらった、と高らかに叫んでみようか、などとふと思う。

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