109 97.06.06 「大袈裟しばり」

 気の置けない、というと正反対の二通りの意味があることになっていて、ややこしいったらありゃしないのだが、この場合は本来の意味の「気を許せる」のほうだ。気の置けない連中と居酒屋で飲酒に及んでいたのである。
 その場の成り行きに過ぎないのだが、大袈裟しばりが入った。
 すべての言動は大袈裟に表現しなければならなくなったのである。我々が呑んで馬鹿話をしていると、時々こういう「しばり」が入る。物真似をしながら喋らないとダメとか、発言の中には必ず動物の名前を入れなきゃダメとか、そういうことをして遊んでいる。頭脳をぶんぶん回転させなきゃ会話が成立しない。たいへん疲れる。まあ、ストレス解消のために飲酒しているわけじゃないから、疲れたって別に構わないのである。草野球と同じで、疲れても愉しければそれでいい。我々は、飲酒と面白話が好きな集団に過ぎない。
 大袈裟しばりというのは新機軸で、即座に「じゃ、今からやろうっ」と、採用の運びとなった。
 最初の犠牲者は、そこへたまたまモロキューを運んできた、店員であるところのおばちゃんであった。
「おおっ、モロキューではないかっ。これが巷で噂される日本一のモロキューだなっ。このキュウリの見事に屹立したイボイボを見よ。この生きの良さこそが、モロキューの身上だ。露地物ならではの崇高な食感を吟味しようではないか」
「ばかねあんたたち。ハウス物に決まってんじゃないよ。露地物なんてまだ出回ってないわよ」と、おばちゃん。
 だが、我々はめげないのだ。
「しかるに、この金山寺味噌である。有史以来、かくもキュウリの真髄を引き出し得た調味料があったであろうか。この絶妙な出会いをいざなった天の配剤に、いま私はあらん限りの感謝を捧げたいと思う」
 おばちゃんは気味悪がって行ってしまった。我々はひとしきりげらげら笑う。馬鹿集団は止まらない。
 この焼き鳥はうまい、と言うだけでも一苦労だ。
「この焼き鳥であるが、私は本日うまれて初めて真の焼き鳥に出会ったとの感慨にむせび泣いている次第である。私のこれまでの人生はいったいなんであったか。この焼き鳥との邂逅は、私に妙なる福音をもたらしたといっても過言ではないとさえ誇りをもって断言できるのではないかと言うに事欠いて思い知るべきであろう」
 なにを言っているのかわからなくなってしまったりするのだ。
 讚美も大袈裟ならば、罵倒も大袈裟だ。
「このたびのシラスオロシであるが、この大根おろしはどうなっておるのか。こうした粗いおろし方が許されていいものであろうか。かかる不見識を看過してよいのか。我々は断固として、この狼藉に抗議すべきではないか。立ち上がろうではないか、諸君っ」
「おうっ」
 全員が立ち上がるもんだから、店長がぴゅうっと飛んでくる。
 冗談ですから冗談。慌てて釈明して、丁重にお引き取り願う。
 我々の冗談は世間に誤解しか呼び起こさない。
 世間様に御迷惑をお掛けするのは本意ではないので、我々だけの間で閉じる大袈裟にしばりを絞った。
「そのような悲壮な形相で、いったいどこへ行くのか」
「トイレである。長い航海になるやもしれぬ。みんな、俺がいない間も達者でいてくれよな。南十字星の下から祈っているぞ」
「無事に帰ってくるんだぞ。いつまでも待っているからな」
 ひし、と手を握り合ったりするのである。馬鹿である。
 こういうことをやっているとそのうちに周囲の好奇を煽るものらしく、たいてい酔っ払ったひとが乱入してくる。この集団の中ではなにをやっても許されるという先入観を抱いてやって来るので、ちょいと困る。
 こたびも、ネクタイを思いっ切りゆるめたおじさんが暴言を吐きながら、おれの仲間だってな感じで我々の席を訪れた。こういった場合の対処法は確立されていて、にこにこ笑いながら、いきなり難しい話を始める。我々にもまったくわかってはいないのだが、不確定性原理とかフェルマーの定理とかミンコウスキー空間といった単語を並べまくる。我々にはそれらの言葉の意味はさっぱりわからない。わかってるふりをして会話を進める。
 たいがい、おじさんはさあっと逃げてしまうのだ。第二義的に気の置けないひとを追っ払うにはこれが一番。
 あのですねおじさん。我々はいっぱい酒を呑んでいますが、さして酔っ払ってはいないのですよ。ほんとに酔っ払ったらこういう頭脳が疲れまくる遊びはできません。酔っ払う前にやっておるのです。
 我々が酔っ払ったらですね、以下略。

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