107 97.05.31 「出さない恋文」

 勘太郎とは私の甥に過ぎない。小学6年生に過ぎない。泣き虫に過ぎない。
 こやつが最近、学習に目覚めるというとんでもない事態を迎えている。
「べんきょう、教えてよお」
 私の部屋に国語の問題集というものを持ち込むのであった。さすがに私の能力を察しているらしく、理科や算数などは持ち込まない。
 私は、不愉快である。なぜ、国語か。私は社会もなかなかのものなのだが。まあ、よい。こたびは、国語のなんたるかをこき知らしめてやろうではないか。
「勘太郎はさ、なぜ国語というか考えたことがあるか。なぜ日本語といわないのか、そういうことを考えたことがあるか?」
「ないよ」
 即座に首を振りやがった。ぜんぜんモノゴトを考察しようとしない。こやつが学習に向かないのは明白である。私は、暗澹たる前途にやりきれなさを覚えた。
「じゃあ、いま、考えてみろよ」
「え~~。なんで~~。そんなのどうでもいいじゃないかっ」
 勘太郎は、たいへん不服そうである。
「だめだめ。そういう基本を押さえておかねば、なにも身につかんぞ」そんなわけはないが。「ともかく考えろ。日本語と国語は、どう違うと思う?」
 勘太郎は、不承不承考え始めた。
 やがて、言った。「ん~とね、日本語は使ってることばで、国語は学校で教わることば」
「なるほど、そう見たか」
「合ってる?」
 おいおい。「合ってるもなにも、正しい答なんかないぞ。違っているのがわかっていれば、それでいいんだ」
「?」
 勘太郎は、理解できないようであった。
 まあ、よい。次は、動機を検証しておこう。
 なぜ、いきなり向学心に目覚めたか。私は勘太郎を問い詰めた。なかなか口を割らなかったが、そこはこちらにもネンリンというものがある。手練手管を駆使して、吐かせた。首筋まで真っ赤にしながら、勘太郎は小声で白状した。
「一学期の成績があやかちゃんより良かったら、あやかちゃんがキスしてくれるの」
 はああ、勘太郎よ、そのような背景があったか。ならば、喜んで協力しよう。
 それにしても、かっこよさでもなくサッカーのうまさでもなく、学習の結果としての一局面に重きを置くあやかちゃんとは、これはちょっとヤな女ではないか。オレはヤだな。もう、ヤ。まあ、私がキスされるわけではないのでどうでもよいが。
「じゃあ、とりあえず、漢字のテストをしよう」
「え~~、漢字はにがてだよう」
 なにを言ってるんだ、こいつ。「おまえさ、教わりにきたんじゃないの?」
「そうだよ」
 ちっとも悪びれていない。私は頭を抱えた。
「あのさあ。え~と、まあいいや。とにかく漢字のテストだ。あやかちゃんのフルネームを漢字で書け」
「書けないよ」
 きっぱりと言いやがった。
 私は愕然とした。「おまえ、好きな女の子の名前も書けないの?」
「だって、むずかしいんだもん」
「呆れたなもんだな」
「ゑ? なんで? ほんとにむずかしい字だよ。まだ習ってない漢字なんだよ」
 勘太郎は、不思議そうだ。
 私は微かな怒りを覚えた。「まだ習ってない漢字は書けなくていいのか?」
「そうだよ」
 そうじゃないだろっ、つうの。
「勘太郎さあ、学校の授業よりあやかちゃんのほうが気になるだろう」
「うん」
「あやかちゃんのことはなんでも知りたいと思うだろう」
「うん」
「だったら、あやかちゃんの名前も漢字で書けなきゃ」
「どうして?」
「……」
 私は、徒労感に襲われた。五秒間ほどムナシサと戦い、打ち勝った。私は気を取り直し、方向転換した。
「わかったわかった。漢字はやめよう。作文にしよう。あやかちゃんへのラブレターを書け。添削してやる」
「そんなの、恥しいよう」
「いや、なにも、その手紙をあやかちゃんに見せるわけじゃないんだ。ラブレターは作文の基本だ。勘太郎は、学校で作文を書かされることがあるだろ?」
「ある」
「そのときのテーマは、書きたいと思うようなもんじゃなかっただろ?」
「うん」
「だけど、なにか書かなきゃならない。と、したら、だ。あやかちゃんに自分がどれだけあやかちゃんのことを好きかを伝えるのが、いちばん書きやすいんじゃないか」
 勘太郎は、考え込んだ。しばらくして、「書いてみる」と、言った。
 書き始めた。
 暇になった私は、勘太郎が持ち込んだ問題集をぱらぱらとめくった。相変わらず、国語の問題集は間が抜けていて楽しい。
 ところで、私は、他者の著作権を侵害して訴えられたら、即座に己の非を認め諸法令の定めるところにより当局の処罰に服する用意がある。
前へ!
前へ!
ただまっしぐらに
前へ!
きみの前にはゴールがまつ、
きみのうしろにはスピードが残る。
単調な手足のくり返しがきざむ
栄光へのリズム。
きみがきみとたたかう
この長い道程--
 ずいぶん下手くそな詩である。いいのかなあ、多感な連中にこんなの読ませて。「栄光」だって。ヤだなあ。感性が鈍るんじゃないのか。詩を書く悦びを封殺しようとする意図があるとしか思えない。ま~、詩を書く人々はコッカにとっては不要だから、そのつもりなのかもしれないけど。
 設問が笑える。『「きみがきみとたたかう」の、あとの「きみ」は、何を表していますか』というのだが、選択肢が謎だ。「病気」「弱さ」「相手」の三つから選べったって、このなかにはないんじゃないの。たぶん「弱さ」を選ばせようというのだろうが、単に「自分」で充分じゃないのか。少なくとも私には、「弱さ」までは読み取れない。
 勘太郎はすでに「弱さ」と回答している。たしかに、あえて選ぶならそれしかなかろう。しかし、この詩に「きみ」が「弱い」人物であると暗示させる記述があったか。だいたい、何を読み取ろうが、読んだ奴の勝手だろう。
 とはいっても、模範解答によると「弱さ」なのであった。
 なんだろう。ひとはすべからく弱いものだと教えたいのであろうか。そんなこと、国語の授業中には教えられたくはないよなあ。シャカイに放り出されれば、いずれ実感するんだから。実感しないと、ひとは学習しないぞ、ふつう。
 『走るときの動作を、作者はどう表現していますか』という設問もある。すでに書き込まれた勘太郎の答は「ことばで表現している」だ。もっともである。なんの間違いもない。私もそう答えるだろう。まあ、「きわめて独善的な描写で表現している」くらいの答はするだろうが。
 しかし、模範解答はそうではないのであった。「単調な手足のくり返し」が正解なのである。私は呆然とした。その回答を引き出したければ、「どう表現して」ではなく、「どんな言葉で」と問いかけるべきではないのか。
 むちゃくちゃな問題集である。私は、ごみ箱に捨てた。
 びっくりしたのか、勘太郎が顔を上げて瞳をぱちくりさせている。
「この問題集は、洗脳を目的としているようだから」
 私は、なんの根拠もないいがかりを弱々しく申し述べた。
 しかし勘太郎は、この件について考察することなく、すぐに恋文の執筆に戻った。熱中している。やはり、伝いたい思いのたけはあった模様だ。
 やがて勘太郎は、恋文を書き上げた。
ほんとにキスしてくれる?
僕は勉強してるよ。いっしょうけんめい、勉強してるよ。
こないだ、そうじ当番のときは、困ったよ。
僕は外から窓をふいてた。
あやかちゃんがあとから来て、内がわからふくんだもの。
困っちゃったよ。
あやかちゃんの右がわの目の下に、小さなきずがあった。
気になってしょうがなかった。
どうしたのって、ききたかったけど、きけなかった。
どきどきした。
へんな気持になった。
がんばって勉強するよ。キスしてもらうんだ。
 やっぱり、恋するひとは、いいものを書くな。「前へ!」などと連呼する愚鈍な詩とは大違いだ。
 出さないことがわかっている恋文ほど、素直に書けるものはないもんなあ。
「これ、ほんとにあやかちゃんに出してみないか?」
 私が提案すると、勘太郎はぐにゃぐにゃになった。
「だだっだっ、だめだよう。だめだめっ。だめだようっ」
 勘太郎は顔面を紅潮させて、私から恋文をひったくり、びりびりに引き裂くのであった。

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