097 97.05.05 「カピバラからの逃走」

 カピバラが怒っているのを目撃したことがありますか。私はありません。そもそも、私はカピバラを見たことがありません。でも、カピバラ、怒るとちょっと怖い気がします。侮れません。追いかけてくるんじゃないでしょうか。そんな気がします。多分そうでしょう。逃げるしかありません。
 最大の齧歯類というフレコミです。ネズミの仲間ですね。成獣になると体長1m、体高50cm、体重60kgに達するとは、ものの本が語るところです。そんなでかいネズミがこの世に存在するかと思うと即座に首をくくって死にたくなりますが、実際にはその形状はカバに似てお茶目らしいので死ぬのはぐっとこらえましょう。人間、そんなに死に急いではいけません。我々は腐っても霊長類です。
 カピバラ、ふだんは南米のジャングルで30頭程度の群れをなしていたり、このくにの動物園でさらし者になっていたりするそうですが、ふと街角で出会わないとも限りません。昼飯を食べ終わって爪楊枝をくわえながら舗道に出たところ、一匹のカピバラが昼寝をしていたらどうしましょう。逃げるのです。逃げるしかありません。いいから、逃げましょう。仕事? なにを言ってるんですか。そんな悠長なことをほざいている場合ではありません。目が合ったら終わりです。さあ、カピバラが眠っている間に逃げるのです。そおっと、そおっと、起こさないように。さ、いまだ、走れっ。竹馬の友セリヌンティウスが待っているぞ。
 夜道で寿司の折り詰めを手に千鳥足で歩くカピバラに出くわしたらどうしましょう。逃げましょう。悪いことは言いません。ただちに逃げてください。ただのカピバラではありません。酒が入ってます。酒乱のカピバラは手におえません。根拠はありませんが、手におえるわけがないのです。逃げましょう。顔を憶えられてストーキングされたら、あなたの一生は台無しです。
 カピバラは非常に臆病で、驚いたり敵がきたりすると、すかさず水中に飛び込んで身を隠すといいます。性格がおとなしい上に人に慣れやすく、南米ではペットとして飼われているともいわれます。
 けれども、我々は知っていますね。そういう奴こそ、ひとたび破綻すると、とんでもないことをしでかすことを。あのおとなしいひとが、ってやつです。善良そうな仮面の下でなにを考えているのかわかったものではありません。
 カピバラにも機嫌の悪い日はあるでしょう。かわりばえのしない退屈な日々の営みの中で、ふと魔がさす瞬間もあることでしょう。そのときそのカピバラの目前にたまたまあなたがいたとしたら、カピバラがあなたの鼻先に噛みつくであろうことは容易に想像されます。いや、ひょっとして鼻先では済まないかもしれません。あなたのなにか他のもっと大事な突起物がいま危機に直面しているのです。油断してはなりません。
 なんといっても齧歯類です。怖そうです。とっても怖そうです。なんだというのでしょうか、この難しい漢字は。なにもよりによって齧はないでしょう。なにかもっと他の漢字はなかったのでしょうか。
 噛みつかれたら、最後です。あなたはカピバラに噛みつかれた人物として余生を過ごさねばなりません。いや、べつにあなたがそれを屈辱と感じないのなら、私としてもこれいじょう無理強いするつもりはありません。けれどもし、あなたに自己の尊厳を大切にする気持があるのなら、悪いことはいいません、逃げましょう。
 我々とカピバラがうまくやっていけるわけがありません。
 なにしろ、カピバラの指の間には水掻きがあるのです。信じられますか。水掻きです。これには不信感を抱かざるを得ません。得ませんったら、得ません。係わりあっちゃだめなんです。
 そういうわけで、カピバラに出会ったら、ただちに逃げてください。私からのお願いです。
 次に、街角でヒマラヤユキヒョウに出くわした場合の対処法ですが、あ、もういい? はあ、もういいですか。これからが山場なんですが。
 そうですか、残念です。

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