095 97.05.01 「ら」

「ら抜きをするなら徹底的にやってもらいたい。手抜きをするなっ」
 なんだなんだ。えらい剣幕だな。
「ら抜き、いいだろう。大目にみてやろうじゃないか」
 森崎某、なんのつもりなのか、偉そうな態度である。この男は私の友人として誉れ高いが、私の友人を営んでいるだけあって、どこか世間と歯車が噛み合っていない。
 本日は、ら抜き言葉にお怒りの御様子だ。
「オレはべつに構わないと思うんだけどね。可能と尊敬の区別もつくようになるし」
「なななにを言っておるのだ。おまえは亡国の徒か」
「そうだよ」
 知らなかったのであろうか。私は亡国の徒に他ならぬ。
「ばばばばばかもんっ。きさまそれでも帝国軍人かっ」
「まさか」
「おまえはさ」森崎某は嘆息するのであった。「そういう醒めたところがいかん。おまえの肉体には熱き血潮が滾っておらんのか」
「おらんおらん。うーたん」
「またそうやって混ぜっ返しやがる。ま、よい。目下の敵は、ら抜き言葉だ」
「敵、なあ」
「敵とはいえ、それがしも一箇のもののふだ。寛大である。譲歩も致そう。ら抜き言葉を使ってよいこととする」
 何様のつもりか。
「なれど、条件がある。ら抜き言葉を使う者は、向後一切、らを使ってはならぬ。金輪際、まかりならぬぞ。城下に高札を立てて、民に伝えよ」
 殿様のつもりらしい。
「名前がさくらちゃんだったら、どうすんの」
「改名せよ。それができぬのならば、死罪に処す」
 処すなよ。
「らを使えないってことはさ、たとえば、ラクダと言ってはいかんのか」
「無論である。クダとしか言ってはいかん。砂漠にいるクダ、とでも言えばよいではないか。意味は通じる。私もそこまで狭量な人物ではない。クダを巻くくらいは許そう」
 充分に狭量だと思うが。
「そうするってえと、水戸黄門のテーマソングを歌うと、人生苦ありゃ、苦もあるさ、ってことになるわけだな」
「当然である」森崎某はうなずく。「自ら蒔いた種である。苦しみ抜けばよろしい」
「西武ファンだと大変だな。私はイオンズのファンです、と言わねばならん」
「いうまでもない」森崎某は断言する。「巨人ファン以外は人ではないのだから、気にすることはない」
 むちゃくちゃだが、普段から放言癖のある人物なので、あまり気にしてはいけない。
「らを発音できないと困るなあ。モリタカのララ・サンシャインが歌えん」
「歌うんじゃないっ、そんなもの。およそ、人たるもの、南沙織だけを歌っていればよろしい」
 ばかか、こいつ。あ、いや、ばかなのだが。
「落慶や霍乱なども口にしてはいかんのだ。ざまあみろなのである」
 森崎某は呵々大笑するのであった。
 そんな言葉は使わんぞ、ふつう。
 そろそろ、おちょくってみようかな。
「いくらおまえがいきりたっても、実際にはそこここでら抜き言葉が使われる場面が見れるわけで」
「ちょ」森崎某の目がぎらりと光った。「ちょっと待て」
「あん?」
「お、おまえ、いま、見れる、と言ったな」
「あ、そうか、言ったか? あ、言ったな。わははは」
「使うなよ」森崎某は静かに言った。「二度と、らを使うなよ」
「それはつらいな」
「使うなと言うておろうがっ」
「ら~ららら~」
「許せぬ。成敗してくれよう。そこへ、なおれ」
 そろそろキレるかな。逃げよっと。「じゃ、オレ、野暮用があるから」
「待てっ。待てと言うに」
「さよなら~」

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