070 96.10.08 「おまえの母ちゃん」

 窓の外から子供同士の口喧嘩が聞こえてきた。なんとなく耳を傾けてたんだけど、どうも変。なにか物足りない。バカとかマヌケとか貧弱な語彙を繰り返しがなり合って、それなりに子供ならではの口喧嘩の様相を呈して微笑ましいんだけれど、もうひとつ盛り上がりに欠けるんだよなあ。いかんです。もどかしい、ったらありゃしません。
 そうだそうだ。あの決定版のセリフがないんだ。
 「ばか、かば、ちんどん屋。おまえの母ちゃん、出べそ」
 この、伝統と格式に満ちた名文句を口にせずして、口喧嘩といえましょうか。私は認めません。ええ、認めませんとも。これを言わなきゃ画竜点睛を欠いておるぞ、君達。
 出て行かねばなるまい。子供の正統的な口喧嘩のなんたるかを彼等に諄々と説いて聞かせ、更にはこのセリフの存在意義を周知徹底させ、あまつさえその発声と抑揚について懇切丁寧な指導を施してやるのだあっ。と、いきりたったけど、よく考えてみたらまったくもって面識のない子供だったので、あやうく踏みとどまりました。しかし、更によく考えてみると、こんなことでいちいちいきりたったり踏みとどまったりすることもないな。なんだろオレ。たはは。
 それにつけても、このセリフはなんだというのでしょう。もう、めちゃくちゃ。「ばか」、これは馬鹿の私にもわかる。罵詈雑言界の王道を行く真の勇者です。愛情表現界にも登場するなど、いくつもの顔を持ったフトコロの広さも余人の追随を許さないところです。
 次の「かば」。なぜここに、河馬さんが。単なる語呂合わせというだけで、河馬さんが。かわいそ。かつてこれほど悲惨な生涯を運命づけられた動物が存在したでありましょうか。これほど不当な扱いを甘受してきた種族がありましたでしょうか。
 私はいま、中学生のみぎりに友人のヤマダくんが披露してくれたプールでの一発芸を思いだしています。「カバのひとつ泳ぎ~っ」と叫ぶなり、肥満体のヤマダくんは身体を弛緩させて、ただ水面に浮かびます。ただ、それだけ。河馬さん、ヤマダくんにまでおちょくられてたんです。
 もう、ニッポンジン、みんな河馬さんをなめきってます。いけません。こんなことではいかんのです。と、思っていたら、英語ではヒポポタマスとか呼ばれてるのね、河馬さん。だめだこりゃ。河馬さん、未来ないわ。あきらめようね、もう。
 続いての「ちんどん屋」。(中略)んですね、やっぱり。
 そうして、真打ちが「おまえの母ちゃん、出べそ」。子供の喧嘩に親が出てくるわけです。これまでの三語にはほとんど意味がなかったことが、まず子供にとっての最も近い味方である母親を引きずり出した時点で明らかになります。自分に向けられていた矛先がいきなり背後の母親に向かう。常套句に深い意味を見出そうとしてはならないと常に自分を戒めている子供はいないので、かちんと来ることになるわけです。そこでまあ、行き掛かり上「おまえの母ちゃん、大出べそ」と言い返しますな。そうして事態は果てしなく混乱していく、とまあ、子供の喧嘩はこうでなくちゃいけません。
 それにしても、出べそがなぜ罵倒の最終兵器となるのでしょう。こういう問題をつきつめていくと、この民族の差別意識とか排他性とか面白くもなんともない結論に行き着くだけだったりしますが。
 私は、幼少のみぎりにこの罵倒に対してかように切り返しておりました。
「へへん。知らねえな。うちの母ちゃんにはヘソがないんだ」
 相手は、意表をつかれてたじろぎますね。
「うちの母ちゃんはカエルなんだぞ」
 ここで、じゃあおまえはオタマジャクシか、などと言いだす奴とはどうせこの先も仲良くやっていけないので、さっさと逃げ出します。それで終わり。あとで顔を合わせてもこちらから避けちゃう。
 たまに、今の今まで喧嘩してたことを忘れて私の話に興味を持ってくれる奴がいます。
「ほんと? ほんとにほんと?」
「ほんとだよう。兄ちゃんなんか、ケロヨンなんだぞ」
 ウケてくれる奴と真に受ける奴がいますが、どちらもそれからもずっと友達です。
 ううむ、この話を彼等に聞かせてあげたい。強烈な欲求が突き上げてきて、私は思わず窓から身を乗り出しました。しかし、ついさっきまで口喧嘩をしていた子供たちの姿はどこにもありません。
「しまった」
 つい、声を出して悔しがってしまいました。なんだろオレ。ほんとにまあ。
 それにしても、ケロヨンは古かったかなケロヨンは。

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