037 96.06.17 「歩いて行こう」

 直立歩行をするようになって以来、我々人類はいったい太陽の周囲を何周したのであろうか。哀しすぎるではないか。人類はこんなに単純なことを未だに解決していない。叡知とは人類に許された唯一の贅沢ではなかったのか。
 ん~、こうも大上段に振りかぶって書き始めちゃうと、なんだか気持いいな。ふんぞりかえって、尊大になっちゃう。尊大とは、今のところ大学の略称ではないので注意。偉大、巨大なども同様。
 歩いている。前方から人が来る。その道あるいは通路あるいは廊下その他それに類する場所は、狭い。やがて両者は接近する。すれちがう為に、両者は相手を避けようとする。
 この瞬間に、いささかの問題が発生することがある。
 両者がそれぞれ独自の判断に基づいて、進行方向の微妙な転換をなす。同時に。同じ方へ。
 自分はよけたつもりだったが、相手も同じ方向によけてしまう。ぶつかりそうになる。あわてて、反対の方向へ移動する。相手も同じことをする。鏡を見ているように。その同時の判断と行為が何度か繰り返されたのちに、失礼とかどうもとか、もごもごと呟きながらようやく両者は無事にすれちがう。
 なぜ、我々は、このようなときの対処を決めていないのだろう。むかしむかしエライひとが「すれちがうときは左へ」と決めておいてくれて、それが常識になってさえいれば、無駄な時間を費やさずに済むのだ。ま、べつにそれが右でもいっこうにかまわなのだが。
 おかあさんは「近所のひとに会ったらちゃんと挨拶するのよ。それから、すれちがうときは左に行くのよ」と子供に諭す。小学校の先生は「寄り道をしてはいけませんよ。それから、人とすれちがうときは左によけるんですよ」と児童に教える。それだけでいい。簡単なことだ。
 航空機や船舶にはそういうときの国際的なルールがちゃんとできている。ルールがないと大惨事が起こるからだ。車両にもある。国によって異なるが、確かにある。交通事故を未然に防ぐためだ。
 歩行者にはない。いかんのではないか。歩行者が正面衝突しても大惨事ではないとでもいうのだろうか。見ず知らずのおじさんとキスをするはめになったら大惨事とはいわないのか。心の傷は一生癒えないぞ。そこんとこ、どうなっておるのだ。
 って、こういうことはどこに訴えたらよいのだろう。なにも立法化してくれといっているわけではない。「対人退避法」とかいう法律ができて「第一条 この法律は、国民の円滑なすれちがいを実現するため、歩行に関する一般的な規範を定めることを目的とする」などと決めつけられたら、それはちょっと困る。
 やはり個人レベルで地道な啓蒙の道を歩むしかないのか。険しい道だが、歩いて行こう。本日より、私は人とすれちがうときにはあくまで断固として左へよけようと思う。相手も同じ方向によけてきたら、突き飛ばしてでも自らの進路を切り拓いていきたい。先駆者の苦難は覚悟の上である。確固たる信念に基づくこうした行動の積み重ねが、幾世代を経て、やがて常識として定着していくことであろう。
 そういうことになったので、唐突ではあるが、皆様も私とすれちがうときは心して左によけて頂きたい。
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