020 96.05.06 「ひまわり戦記」

 押入れの奥から古文書が発見された。絵日記だ。私が幼少のみぎりにしたためたものらしい。まったく覚えはないが、表紙に私の名前とその所属3年1組が記されているので、きっとそうだ。ある夏の7月21日から8月31日までが、たいへん稚拙な絵と字で綴られている。夏休みの宿題であったようだ。
 テーマはただひとつ、日高町軍団vs藤野沢町軍団の抗争劇だ。その夏休みにおける私の興味は、憎き藤野沢町軍団をいかにしてひまわり広場から駆逐するかというただ一点に絞られていたのだ。ちっとも憶えていないが、絵日記はそのように語っている。
 我々日高町の子供たちが常日頃から遊び場として使用していた通称ひまわり広場に、突如として侵略者が現れたところから、この40日戦争は始まった。7月21日に、幼い私はこのように記述している。「きょうから夏やすみだ。ひまわり広場がのっとられた。ぼくたちがやきゅうをしに行ったら、ふじの沢のやつらがさきに来ていた。サッカーをしていた。みきおちゃんがもんくを言った」なんの創意工夫も見られない安直な文章である。情けない。
 当時、幹男ちゃんは6年生で我々のリーダー格であった。長じて消防署に勤務したが酒席での喧嘩が原因で退職し、現在では不動産業を営んでいる。性癖は変わらないということになるのであろうか。更に記述を辿ると、文句を言った幹男ちゃんと藤野沢町軍団の頭目の間で喧嘩が始まったことになっている。これは幹男ちゃんの勝利となり、彼等は引き上げた。第一次ひまわり広場の合戦は、双方の大将があいまみえ、地元側が勝利を挙げたのだ。やはりホームは強かった。
 束の間の平和がもたらされたが、7月27日に第二次合戦が勃発した。藤野沢軍団は乾坤一擲の奇襲を採用した。その前後の記述から察するに、敵は偵察を繰り返していたらしい。こちらの弱点を的確に突いてきた。幹男ちゃんが留守の間を狙ってきたのである。こちらの大将は、こともあろうにこの日から家族で和歌山の親類の家に行ってしまっていたのだ。我々日高町にはもうひとり6年生がいたが、この克己ちゃんは学究肌とでも称すべき人物であり、統率力のかけらもなかった。どんな昆虫の名前でも知っていたり、宿題を手伝ってくれたりする、というような部分で下級生の思慕を得ていた人材であり、誰にでも好かれてはいたが、およそ戦闘には不向きであった。
 その日も我々は飽きもせず野球をしていたのだが、ライトを守っていた克己ちゃんがとつぜん大声を上げて倒れた。先ごろ幹男ちゃんに叩きのめされてしまった敵の大将が、背後から克己ちゃんを襲ったのだ。この時点で、敵の大将は私によってイノシシと命名されている。子供の発想は他愛ない。イノシシに続いて彼の配下が続々と出現し、ひまわり広場はあっという間に彼等に席巻された。こちらは頼るべき大将が不在で、変わって指揮を取るべき人物を真っ先に失っている。ひるんでしまった。防衛や警戒などの思想もなかったことも敗因であろう。すっかり委縮してしまい、克己ちゃんを担いで撤退するほかに道はなかった。私は「こわかった」と書いている。どういうつもりか、朝顔の精密な描写が添えられている。逃避、であろう。
 我々は領土を失った。翌28日は雨となった。我々の間にお触れが回った。克己ちゃんが召集をかけたのだ。ぞろぞろと克己ちゃんの勉強部屋に集まった。のちに医師となって僻地医療に赴いた克己ちゃんの武器は頭脳であった。幸い膝小僧を擦りむいただけで済んだ克己ちゃんは、昨日の敗戦をなんとも思っていないようだったので、一同は安心した。克己ちゃんの言によれば、負けた理由がわかっているから気にすることはないとのことであった。いま考えると、たいへん優れた軍師であることがわかる。状況を分析し兵士に安堵を与えるという行為を最初にやっている。だから、次に出された指令に誰もが従うのだ。すぐに復讐戦に挑むことはない、というのが克己ちゃんの考えだった。一夜明けて一時の恐怖から解放された面々からは、たちまち不満の声があがった。自分達の場所を乗ったられたのだ、ただちに取り返さなければ。そういう声をあげた面々に、克己ちゃんは指令を与えた。藤野沢に偵察に赴け、というものだ。なにかしたがっている人物にすかさず仕事を与えている。しかし分はわきまえていたようで、幹男ちゃんが帰ってくるまで戦いは我慢しようと表明している。どう考えても一級の軍師の所業である。私はといえば、絵日記上で克己ちゃんの煮え切らない態度に不満を洩らしている。まだまだ人間が甘かったようだ。今でも甘いが。
 諜報戦が始まった。派遣された面々はなかなか優秀だったようで、藤野沢の連中が今まで根城にしていた遊び場が宅地造成されたため彼等が流浪の民となったことが報告された。理由のない侵略ではなかったのだ。同情すべき余地はあったが、子供というものは狭量である。誰もが復讐戦を待ち望み、士気は暴発寸前までに高まっていった。
 8月4日、幹男ちゃんが戦線に復帰した。すでに克己ちゃんとの間で軍議が催されたらしく、遅滞のない命令が全軍に響き渡った。第三次ひまわり広場の合戦の火蓋が切って落とされた。
 藤野沢の連中は、ひまわり広場で夢中でサッカーに打ち興じていた。我々は物陰に隠れながらそっと三方から取り囲んだ。しばらく待機していた。克己ちゃんが合図の打ち上げ花火を上げた。それを期に全員が声を限りに喚いた。鬨の声だ。日高町の子供がすべて動員されている。女の子もだ。男の子はいっせいに爆竹に火をつけ、相手にあたらないように投げた。派手な音がした。敵は立ちすくんだ。幹男ちゃんが大声をあげながら、敵方に突進した。続いて、全員が突進した。三方から唐突に出現した我々を見て、敵は一気に総崩れとなった。意図的に解放されていた残された一方にひとりが駈けだし、何人もがそのあとに続いた。敵の指揮系統はなだれをうって崩壊した。あっというまに敵方は逃げ散った。イノシシが、いかにもそれっぽいセリフを吐いた。「お、おぼえてろよ」大勝利だ。克己ちゃんが立案し幹男ちゃんが指揮したこの作戦は大成功をもたらした。私は絵日記に「ざまあみろ」としたため、全員がお日様の下で万歳している絵を描いている。会心の勝利であった。
 その後、8月22日まで、ひまわり広場は我々の天下となった。当番制で常に見張りが立ち、敵の斥候が発見されるや否や全員で恫喝のブーイングをあげるという不自由な平和ではあったが、我々は自らの領地を専守防衛し、夏休みを謳歌した。
 8月23日は朝から厚い雲がたれこめ、湿った風が強く吹いていた。嵐が近づいていた。第四次ひまわり広場の合戦は、暗い空の下でその不気味な端緒を静かに待っていた。
 藤野沢軍団の新兵器は飛び道具であった。投石という手法が用いられた。もちろん昨今の未成年が演じる殺伐としたサツリクとは根本的に違って暗黙のルールがあるわけで、敵方も絶対に当たらないようには投げている。だが、投げられたほうは確実にひるむ。またしても奇襲ではあった。多くの石つぶてが敵兵によって投擲された。
 とはいえ、投石がさほどの効果をあげることはなかった。軍師である克己ちゃんのレクチャーによってほとんどのケーススタディが済んでいたのだ。迎撃態勢は万全だった。しかも、誰もが全幅の信頼を置く幹男ちゃんという大将がいる。我々の士気は高かった。その数日前に私は、「あいつらがどんなことをしたって、ぼくたちは負けない」と書き記している。まるっきり馬鹿ではないか。あろうことか、一介の兵士と化している。我ながら誠にもって情けない。自我が、まだ、弱々しい。
 実際のところ確かに一兵卒ではあったので、軍師によるかねての御指導の通り、すかさず反撃に移った。ホース攻撃というものだ。広場の片隅にあった水道の蛇口を全開にして、つないだホースの先を細めて相手に高圧力の水を放出する。この攻撃は意外に効果があった。瞬く間に、相手はずぶ濡れになって撤退していった。完勝だ。
 だが、事態は急変した。敵の藤野沢軍団に神風が吹いたのだ。いきなり雷が鳴った。同時に大粒の雨が、ついに堪えきれなくなった空から勢いよく落ちてきた。土砂降りだ。こちらも、あっという間にずぶ濡れだ。戦闘どころではなくなった。結論としては、痛み分けだ。相手は撤収したものの、こちらも領地を確保することなく撤退してしまったのだ。私は、「たいふうが来なければ、勝ったのに」と、満たされない思いを悔しそうに綴っている。
 8月28日、ついに和平が訪れた。抗争の結末はたいへん下らない。第三者の介入だ。双方の陣営の親同士の話し合い、という常識的で心踊らない方法論が強制的に採用されてしまったのだ。「仲良く遊びなさい」とのお達しだ。私は、「仲良く遊んでたのに」と記述している。本質はわかっていたらしい。
 要するに、双方とも白けてしまった。本人達が意識しようとしまいと、一連の争いはゲイムだったのだ。どちらの陣営も漠然とそう認識していたのだ。そこに、なんだかわからないけど、とてもかなわない権力が介入してきた。
 彼等の和平案は「ひまわり広場は日高町の子供たちも藤野沢町の子供たちも仲良く使える」というものであった。ずっとそうしてきたじゃないか、という思いを言葉に変換できる子供がひとりもいなかったために、強制的な和平が成立した。納得していた奴は、ひとりもいない。
 届けたい思いを伝える言葉を学ぶためには大人にならなけれならないのだろうか、大人にならないで届けたい思いを伝えるすべを学ぶ方法はないのだろうか。と、そんなことを考えたのは束の間であって、もちろんそれは言葉にできない思いに過ぎない。つまるところ、必要な言葉は、必要がなくなった後に覚えるしかないのだ。
 むずがる思いが薄れた頃に、ずっと昔に必要だった言葉が目の前に現れて、その意味を提示してくれる。
 子供の頃にかいた絵日記は、大人になってしまった本人しか、真に理解できないのではないか。と、いうのが本日の結論だ。明日になったら、違う結論を抱いているかしもれないけれども。
 この絵日記の、宿題という観点からの評価は、「たいへんよくできました」である。色あせた朱色がそう語っている。いい先生であった、のだと思う。

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