017 96.04.23 「葛藤」

 パチンコは難しい。なかなか勝てない。出玉の数をもって判断した場合、なかなか勝てない。他にもなにかしら精神的な勝利の形態があるようにも思うが、やっぱり札を数えつつ景品交換所をあとにしなきゃないかんよなあ。あ、ちがうちがう、そのようなことを語ろうとしたのではなかった。
 昨日も私の出玉は一進一退を続けていた。正確に記せば1進1.1退といったところで、約分すると十進十一退で四字熟語ではなくなってしまうのだが、そもそもこういうのは約分というのか。まあ要するに、大当りで出した玉がなくなって更にいくばくかの金銭を投入したとたんに大当りが来るものの連チャンしないという、アンニュイな花曇りの午後三時、メロウな気分でビッグウェンズデイを待つ、というような状態だったのだ。
 ふと気づくと、隣のおじさんがなにやらぶつぶつ呟いている。「まいっちゃったよなあ」と、ひとりごちている。私のあとから席に着いたおじさんだ。
 パチンコをやりながらなにかしら呟いているひとは意外に多い。たいていは思うようにならない現状に対する不満である。即ち、今日はついてねえなあ。しかし時には、パチンコとはまるで関係のない事象について不平不満を洩らすひともいる。じっと耳を傾けていると、いっこうに上がらない自らのセールス業績についての独自の見解とか、崩壊しつつある婚姻関係に対しての厭世的な感想などを聞くことができたりする。これらはたいへん面白い。パチンコしにきてよかった、と思う瞬間だ。
 おじさんも十進十一退のクチのようであった。ちらりと表情を盗み見ると、浮かない顔だ。私は、ここぞとばかりに耳をそばだてた。
 喧騒のなかで、「五十万円」「警察に」といった発言を聞き取ることができた。むむむ。強盗かなにかをやらかして五十万円を強奪してはみたものの自首するか否か思い悩んでいるのであろうか。私はどきどきしながら、なおも我が鼓膜に神経を集中した。もはや、パチンコどころではない。しばらくして、「届けるか」「こんなもの拾ったばっかりに」「民法」といった独白を採集するに至った。どうやら、どこかで五十万円を拾ってきたらしい。警察に届けるかどうか思案しているもののようだ。おじさんの視線が時折、台の上の棚に走る。黒いセカンドバッグがある。おじさんが置いたものだ。が、おじさんの所有物ではなく、今のところおじさんの意識においては拾得物の段階であり、今後の身の振り方を考察されている過程のものらしい。
 どうするつもりなんだろう。ひとごとながら、私は焦燥した。おじさんの葛藤は続く。「五十万円あれば」という言葉に続き、おじさんのささやかな欲望、夢、といったものが語られた。引き続き、自分の良心、正義感といった事柄にも、おじさんは触れた。
 さあ、どうする。どうするんだ。走れ正直者となるのか、ネコババと40人の盗賊になるのか。私の緊張は高まった。おじさんはどちらを決断するのか。
 おじさんの最後の玉が吸い込まれていった。おじさんは意を決したかのように勢いよく立ち上がった。
「よし、決めた」と、おじさんは言った。
 私は、呆然とした。おじさんは、黒いセカンドバッグをその場に残して立ち去ってしまったのだ。
 それはないだろう。それは。
 私の他に、おじさんの独り言に耳を傾けていたひとはいないようであった。おじさんの忘れ物に気づいたひともいないようであった。
 その後、店員がその忘れ物を持ち去るまでの小一時間ほどの間、私はいろんなことを考えた。それはもう、いろんなことが胸に去来した。
 くたくたに疲れた。すっかり老いたように思う。

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