『雑文館』:97.10.04から98.02.03までの20本




141 97.10.04 「目立たないような。」

 「○○みたいな。」の評判が芳しくないらしい。
 私もついうっかり使ってしまうのだが、やはりこのへんで悔い改めるべきではなかろうか。どのへんだかはさっぱりわかっていないが、んんと、このへんかな。きゃっ、そこじゃないわ、ココよ。などと一人二役でおちゃらけてみても虚しいだけの、今はもう秋。
 「○○みたいな。」が不評を醸している背景には、述語が省略されてそのあとが続かない点に主因がある。「みたいな、なんだよっ」と、思わずツッコミを入れたくなる、という声はたしかにある。そうした衝動を抱かせるのが敗因だ。たとえ少数であれ、誰かを苛立たせている。「○○みたいな○○」がまずいのではない。「○○みたいな。」がまずい。そこで止まってその先がないのが、どうも誰かの癇にさわっている。
 この仮定を立証するべく、私は孤高の運動を始めるに至った。言い換え、という古来より伝承された手法だ。「○○みたいな。」と言いたくなったら、すかさず「○○ような。」と言い換える。
 「みたいな」自体に罪はなく、述語の省略という構造こそに不評の原因が潜んでいる。「○○ような。」を使用することで、このあたりのシンジツを浮き彫りにしてやろう、という試みである。
 とはいえ、この運動はなかなか世間に認められないのであった。その存在でさえも、誰ひとり気づいてくれないのである。ぐすん。
 「ような」は、どうにも目立たないのであった。文語であろうが口語であろうが、ちっとも目立たない。陰働きが似合う役回りなのであった。出る杭は打たれるというような際だった個性が微塵もない。ね、いま、目立たなかったでしょ。まわりの言葉に馴染んで埋没してしまう。「ような」だけが浮き上がって、愛敬を振り撒いたり害毒を撒き散らしたりといった場面にはならない。あくまでひっそりとつつましやかに暮らしている。座敷童のような。と、いうふうにあとを続けずに止めてしまうと、少しだけその存在を主張するが、ここで格助詞「の」の救援を仰がなくちゃならないところが、やっぱり弱い。
 座敷童みたいな。と書いた方が、確かに引っかかるもんなあ。「みたいな。」は、なんにでもくっついちゃう。動詞だろうが形容詞だろうが名詞だろうが、平気でへばりついてしまう。パートナーを選ばない。使い勝手がよすぎる。難敵である。
 日常会話ともなると、更に困難は深まっていく。
 「○○みたいな。」と言いたいところをぐっとこらえて、「○○ような。」とあえて口にする。だが、私のその葛藤がなかなか理解されない。聞き流されてしまうのだ。「○○ような。」は、耳に引っかかりにくいことこの上ないのであった。
 私が発言した瞬間に相手が違和感を覚えて会話がそこで停止する、という私が望んだ展開にはならない。会話は滞りなく続いてしまう。
 なんということだ。私はぐっとこらえているのである。こらえた「ぐっ」が溜まりに溜まっているのである。いったい、この「ぐっ」をどうしてくれるのだ。
 こだわりに気づいてもらわねば、私の立つ瀬がないではないか。やむを得ない。非常手段だ。
「○○ような~。」
 語尾を伸ばすのだ。「○○みたいな。」でも頻繁に使用される手法である。
 しかしやっぱり話し相手は気づかないのである。
「な~~。」
 私の語尾はまだ哀しく伸びる。相手はやや怪訝な表情を見せるが、やはり私の意図は伝わらない。
「~~~。」
 私の目に口惜し涙が滲むが、相手は会話の先を急ごうとするのである。私の孤高の運動が実を結ぶことはない。けして、ない。断じて、ない。
 もはや、万策尽きた。
 わかったわかった。いいよ、もう。「○○みたいな。」にはもう敵わない、みたいな。

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142 97.10.23 「遥かなる北アルプス」

 ロックアイスの頂点は「北アルプスの氷」とする、ことになった。
 することにしたのは私である。ロックアイス評論家としての名声をほしいままにしたと思い込んでいる私が言うのだから、間違いはない。
 間違いは私の不治の病なので見逃して欲しい、んだけども。
 北アルプスの氷に出逢えたことで、私の人生もあながち価値のないものではなかったと、私は今、確信をもって断言できる。私の胸裏に溢れるこのすがすがしい満足感を、いったいどう表現すればよいのであろう。
 あなたに逢えてよかったと小泉さんは歌ったが、私も北アルプスの氷に逢えてよかった。小泉さんは永瀬さんに出逢ったが、私は北アルプスの氷さんに出逢ったのである。価値観は人それぞれだ。しあわせを実感できるならば、これにすぐる悦びはない。生きていてよかった。あのとき死ななくて、ほんとうによかった。
 なんにせよ、侮れないのはJCである。
 JR東日本の直営なのか傍系会社による経営なのかは知らない。一等地を約束されたコンビニエンスストアがJCである。JRの駅に過度に密着して立地するコンビニエンスストアこそがJCに他ならない。その上を電車が通過したり、その前に駅前広場が展開していたり、その横に改札口があったりする。そういうコンビニエンスストアがJCなのであった。銀のスプーンをくわえて産まれてきたサラブレッドである。
 セブンイレブンやローソンなどの大手の事業開発部あたりでは、「あれ、反則だよなあ」と、すっかり匙を投げているのではないか。木のスプーンしか持てなかったものの悲哀が色濃く滲む局面である。とはいえ、JCが幹線道路沿いに出店することはないのだから、明るい未来を見据えて前向きに生きていこうではないか、しょせんJCは線路から離れたら生きていけないのだ、線路離れできない子供なのだ。って、誰に言ってんだオレ。
 周知の通り、コンビニエンスストアにおいて販売されるロックアイスは一種類の製品によって寡占されている。セブンイレブンにはコクボのロックアイスしかない。隣に置かれたニチレイのパーティアイスと売り上げナンバーワンを競うといった事態はありえない。
 JCには「北アルプスの氷」だ。インターチェンジとラブホテルが抜き差しならぬ関係にあるように、JCと北アルプスの氷は切っても切れない深い仲に陥っている。JCでロックアイスを所望する者は、すべからく北アルプスの氷を購入しなければならない。他のが欲しいなどと、だだをこねてもだめだ。北アルプスの氷を買うか買わないか、迫り来る諸問題はその一点に収斂する。商標などという権利意識のかけらもない安直なネイミングを貫いた北アルプスの氷を、いったい買うのか買わないのか。安易な気持でJCを訪れたうっかり者を諭す機会を待ちながら、北アルプスの氷は今もJCの冷蔵庫で静かに眠っている。
 北アルプスの氷は、長野県松本市にある田中製氷冷凍株式会社が製造している。製氷の冷凍である。並々ならぬ気概が窺える社名だ。今後を託しても悔いのない会社ではなかろうか。
 その氷の瞠目すべき硬度に、田中製氷冷凍株式会社の気迫が凝縮している。この毅然としたロックアイスに刮目せよ。「いい仕事をしている」などとうそぶいて、グルメ気取りを気取ってみたくなる俗物根性を抑えきれない。最も優れたもののひとつ、などと優柔不断な直訳調でもったいぶっている場合ではない。そんなケチなことをほざいていては、お天道様に申し訳が立たない。JAROがなんだ。気にするな、そんなもん。「北アルプスの氷」は、最も優れた唯一のロックアイスに紛れもない。
 私はかねがねファミリーマートのロックアイスに惜しみない愛を注いできたが、残念ながら別離のときが訪れたようだ。出逢いの陰には別れがある。私は今日を限りに北アルプスの氷と新たな人生を歩んで行きたい。ファミリーマートのロックアイスよ、麗しい時間をありがとう。貴女との溢れんばかりの想い出を胸の底にそっとしまい込んで、私は残された人生を北アルプスの氷に賭けてみたい。
 しかしこんな夜に限って、バーボンを切らすという不始末をしでかしてしまう私なのではあった。

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143 97.10.25 「その字どんな字」

「えんじょう、ですか?」
「えんじょうぎ、です。ぎ」
 相手方は携帯電話らしく、いまひとつ円滑な会話ができない。とにもかくにも、氏名を聞き取ることが、この電話において私に科された使命なのであった。
「えんじょうぎさんですか。どんな字を書くんですか?」
「違います違います。えんじょうじです。じ。てらが付くんです」
「あ、すみません。えんじょう寺さんですね。えんじょうの方は、どういう字ですか」
「えんは演習の演です」
「はいはい。演技の演ですね。」
「違います。その演じゃありません。だから、えんしゅうのえんなんですよ」
「円周率の円周ですか」
「そうじゃないです。遠州灘の遠州じゃないです。だから、えんしゅうなんですよー」
 携帯電話の悪夢といったところであろうか。
「円盤の円ですね。円高の円。通貨の円」
「ツーカーセルラーじゃないですよ。ドコモです」
 円じょう寺さんは、訊いてもいないことを答えるのであった。
「だから、円ですよね。円い円」
「あ、そうですそうです。それの旧字」
 ゑ? その展開は読めなかった。えんじょう寺さん、人が悪い。
「旧字ですか。どんな字でしたっけ?」
「四角の中にいっていう字が入ってるんです」
 囲? はて?
「囲む、ですか?」
「い、じゃないです。いん、です。いん。ええと、いんです。ほらほら、あのいん」
「はあ」
「あっ。8時だよ全員集合!の員なんです」
「ははあ。四角の中に員ですね」
「おい~す」
「ぷっ」
 私はつい吹き出してしまった。圓じょう寺さん、自らが苦し紛れにひねりだした例に引きずられて、一瞬おさない頃にかえってしまったもののようであった。
「あ。失礼しました。ついうっかり」
「いえいえ。それで、じょうはどんな字でしょう?」
「じょうしょうじのじょうです」
「じょうしょうじですか?」
 上昇時、であろうか。
「ほら、サッカーの」
「ああ。横浜マリノスの城ですね」
 城彰二は、こういうときには出さないものではなかろうか。
「えっ? ジェフ市原じゃないんですか?」
 出したわりには認識が古い圓城寺さんなのであった。
「いやまあ、移籍したんですよ」
「そうなんですかあ」
「苗字はわかりました。下の名前をお願いします」
「しげおです。長島茂雄の茂雄です」
「は?」
 それはずるいのではないか。ようやく折り返し地点に達したと思ったら、実はハーフマラソンだったのである。そこがゴールだったのである。私は虚脱した。
「もしもし、わかりましたか。もしもーし」
 圓城寺茂雄さんの声で我に帰った。
「あ、はいはい。わかりました。長島茂雄の茂雄ですね。つい拍子抜けしちゃって」
「わかりますわかります。時々いるんですよ、そういうひと」
「はあ」
 苗字の説明をもっと的確にできるようになることが、圓城寺茂雄さんの今後の課題といえるのではないだろうか。受話器を置きながら、強くそう思う私なのであった。

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144 97.11.12 「そんな簡単なことが」

 利休箸ならば安心かというと、実はこれがそうでもなかったりするので、割り箸は侮れない。ふとした油断が命取りになる。
 元禄箸に至っては、絶対に気を抜いてはならない。全身全霊を指先にこめて、割る。ふたつに、割る。なにしろ相手は割り箸だ。一本を二本に分割しなければ、食事が始まらない。宴会も始まらない。食事をしなければ死んでしまうし、宴会をしなければやっぱり死んでしまう。死ぬのが嫌なら、割り箸を割るしかない。そこに割り箸があるなら、まずこれを二本に分割せねばならない。それが我々に与えられた使命である。
 割り箸の構造上の顕著な特質として、一方の端部の一体化が挙げられよう。この部分を切り離すことから、すべては始まる。食事は始まる。宴会は始まる。我々が生を謳歌すべき魅惑の時間をもたらすのが、割り箸である。
 ここで我々は、物事の第一歩からつまずいてしまう人々が常に存在することに、慈愛の目を向ける必要があろう。彼等は、割り箸をうまく割ることができない。実にどうも、できないのである。分割された二本が相似形にならない。一方が肥大化して他方の領分を侵犯してしまう。合わせれば元の形には戻るが、割り箸は合わせては使わない。ひとたび分割されたら、その後は付かず離れずして活躍するのが割り箸なのである。
 ひどい場合には、端部が丸ごと片側に残ってしまう。こうなるともはや箸としては機能しない。割り箸として生まれ割り箸として生きてきた人生が、真の活躍の舞台へのぼる寸前にいきなり閉じてしまうのである。いかなる食物に触れることもなく、ごみ箱へと葬り去られるのである。涙なくしては語れない非運の生涯といえよう。
 一方、ちゃんと割ることができなかった不器用な人物は、こみあげる無念に唇を噛みしめている。またひとつ貴重な森林資源を無駄にしてしまった、と、悔いている。全世界の無言の非難をその背にひしひしと感じながら更なる割り箸を求める私を、どうかそっとしておいてくれないだろうか、いやこれは私の体験談ではなかった、あくまで一般論である。そのへん、しかと了せられたい。
 しかも彼にとって、これは初めてのことではない。ありていにいって、ありがちな出来事だ。不思議なことに、割り箸の分割に失敗した人々すべてにとって、それは始めての失敗ではないのである。誰もが、以前から時折やらかしている。生まれてこのかた一度もそんな失敗の経験がないとか、そもそも割り箸を使ったことがないとかいう輩とは、このさき仲良くやっていく必要はないのでここでは無視する。どうしても「こんな失敗は初めて」という声を聞きたいのなら子供に訊くしかないが、たとえ子供がそう答えたとしても、子供の言うことなど信用できるものか。そういうわけで、誰もが上手に割り箸を分割できなかった屈辱の過去を有しているのである。うまく割れないのは私だけではない、いやいや一般論だった、あなただけではないのである。
 とはいえ、時々ならともかく頻繁に失敗するのはいかがなものか、といった意見もあろう。あろうが、どうしてあなたはそのような心無いことを言うのか。慈愛の精神があなたには欠如しているのではないか。うまく割れないんだからしょうがないだろっ。
 と、もはや一般論などと自分をごまかしている場合ではなくなってしまったが、なぜどのような文献をあたってもその正しいやり方というものが載っていないのか。和食のマナーといった類の教養書をひもといても、正しい持ち方を図解していたり迷い箸はいかんと訓戒していたりはするが、割り箸の上手な割り方はどこにも見当たらない。私は、使う以前の段階で思い悩んでいるのである。そんな簡単なこととつれなく冷笑するのはやめてくれ。ちょっとしたコツがあるのではないか、それを教えてくれ、頼む、この通りじゃ。
 知りたいことは他にもある。廃棄するか否かの分岐点はどのあたりにあるのか。新規の箸を求める際に、どれほどまでの失敗が許されるのか。少々の不揃いには耐えるべきであることはわかる。自ら招いた災難だ。我慢せねばならない。しかし我慢にも限度がある。使い辛ければ、新たな割り箸を求めるしかないではないか。どのあたりまでがじっと耐えねばならぬ失策か。どのあたりまで失敗すれば、交換を望んで恥しくないか。そのあたり、社会常識として固定観念まで育っていないのか。
 簡単なことは誰も教えてくれない。
 自ら試行錯誤しながら学ぶものだと言われても、学ぼうとし続けた時間があまりに長すぎる。もはや、進退極まった。
 割り箸なんか、この世からなくなっちゃえばいいんだっ。そう叫びながら泣きじゃくりたい気持をぐっと抑えて、私は今日も割り箸を割る。
 やっぱり、うまく割れない。利休箸だというのに。屈辱に身を苛まれながら、また貴重な森林資源を無駄に廃棄する私である。
 割り切れない。

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145 97.11.15 「びよんびよん」

 私はなめこおろしに醤油をかけていた。なめこおろしはおいしいと思う。わかってくれとは言わないが、おいしいと思う。
 木下は、なめこおろしにはあまり興味がないようであった。上の空、という態度をあらわにしている。烏賊の下足揚げ、隠元の胡麻合え、鰹の酒盗といった珠玉の顔触れにも、なんらの関心を見せることがない。そわそわしている。久保田さえ味わうことなく機械的に呑み干している。居酒屋の異端分子と化していた。
 いきなり、木下は告白するのであった。
「おまえだから言うんだ」
 むむむ。醤油さしを置きながら、私は身構えた。
 カネか。カネに困っているのか木下。わかった。よくわかった。五千円くらいなら都合しようじゃないか。私もそれほど冷酷な人間ではない。友のためなら五千円くらいはドブに捨てよう。事情によっては、六千円までは力になってもよい。
「ちょっと恥しい話なんだけどさ」
 木下はためらうのであった。
 オンナか。女性問題の悩みなのか。その分野はたいへん苦手だが、相談には乗ろう。乗ってすぐ降りるが、不甲斐ないオレを責めないでくれ。
「実は、赤い矢印のことなんだよ」
 うつむいていた顔をがばっとあげて、木下は思い詰めた視線を私に放射するのであった。
 はにゃにゃ。
 赤い矢印。
 赤い矢印、である。私にはただひとつの事象しか想起できないが、まさかそんなもんとは関係ないだろう。わからん。
 どうしていいかわからず、私はとりあえず木下のぐい呑みに久保田を注いだ。
 それを一息に呑み干した木下は、意を決した口調で叫ぶのであった。
「ウルフルズだっ」
「あっ」私は思わず声をあげていた。「びよんびよん、かっ」
 いまこのとき、赤い矢印といえば、やはりウルフルズのびよんびよんに他ならないのであった。
 たちまち木下の相好が崩れた。
 一拍おいたのち、期せずして私達は唱和していた。「しせいど~、ジェレイドっ」
 「おまえも好きなのか」張り詰めた「おまえもか」緊張は「いいよな、あれ」一挙に「うん。いい、いい」氷解して「欲しいよな、あれ」いくので「欲しい欲しい」あった。
 資生堂のジェレイドなる整髪料には興味がない。そのCMに登場するウルフルズの面々がその頭にくっつけている「びよんびよんしている赤い矢印」こそが、木下と私を魅了してやまないのであった。
「あれは、売り物ではないのか」
「非売品ではないか」
「しかし、カネを積めば売ってくれるのではないか」
「いかにも。カネで買えないものはない」
「もっともである。買えないものがあるとすれば、カネの出し方が足りないのだ」
「幸いなことに、我々は大金持である」
「うむ。それでは買いに行こうではないか」
 酔っぱらいはかくあるべしという理想を具現化していく私達であった。
 まだ午後七時であった。私達は、とある化粧品店のディスプレイにびよんびよんを発見した。
「あったあった」
「これだよこれ」
 私達は、びよんびよんを指さしながらげらげら笑った。酩酊的多幸症の一典型と称される症状である。
「ジェレイドをお求めでしょうか?」
 職業意識に貫かれた微笑を貼り付けて、お店のおねーさんが出てきた。
「あの~、これ欲しいんですけど」
「は? どのようなお品をお求めでしょうか。デザインワックスでしょうか、スカルプフレッシュナーでしょうか」
 なんだそれは。それは我が身につけても問題のない代物であろうか。
「いや、そうじゃなくてね。この矢印ね、これが欲しいの」
「はあ?」
 おねーさんの目が点になった。
「売り物じゃないのは知ってるんだけど、いくら出せば売ってくれるかな」
「は~あ?」
 おねーさんは逃げ腰となった。ちらりと背後に救いを求めるような視線を投げた。
 い、いかんっ。
 木下が目くばせを送ってきた。私はうなずいた。わかっている。逃げ時だ。まずい展開だ。撤退だ。退くしかない。深夜の歌舞伎町あたりでからまれた頃の感覚が、一気に甦ってきた。木下と私は、とにかく逃げ足が早かった。
「あ、いやいや、気にしないでよ。酔っぱらいのタワゴトなのよ。あは。あは、はは、は」
 私達は後ずさりした。おねーさんも後ずさりしていく。
 その距離の見極めが肝心だ。木下と私は、同時にきびすを返した。そして同時に駈けだした。
「ここまで逃げれば大丈夫だな」
 息を切らしながら、私達はまた別の居酒屋に逃げ込んだ。
「どうすれば入手できるかな」
「こうなると、いよいよ欲しくてたまらんな。びよんびよん」
「ちゃんと作戦を練ろうじゃないか。とりあえず、酒がいるな」
 木下は手をあげた。「おばちゃんおばちゃん、田酒二本ね」
 私は続けた。「あと、なめこおろしちょうだい」
「また食うのか」
「すまんすまん」

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146 97.11.18 「つるみはどこから来たのか」

 「つるみ」とは、いったいぜんたいどこから湧いて出てきたのか。
 私の場合はインスタントラーメンの商品説明をしているラジオで、初めてその名詞を耳にしたのだが、世間ではごく普通に使用されているのか。市民権を得ているのか。私の世間は狭いのか。狭かったのか、やはり。
 たとえば、グルメ番組では前田吟が評判のラーメン屋を訪れて「いやあ、麺にコシがありますね。それから、このつるみがたまりません」などと感嘆しているのだろうか。なぜ前田吟なのかは自分でもさっぱりわからないが、私はスポーツと報道しかまともにテレビを観ないもんでどうか見逃してほしい。
 どうやら、麺がつるつるしている様を表現するときに、この「つるみ」は用いられるらしい。新しい言葉は需要があるから出現するもので、たしかに「このつるっとした感じがいい」より「つるみがある」の方が、字数が少ない分、応用範囲が広い。しかも名詞であるから、修飾語を乗せやすい。便利だろうと思う。「喉ごしのいいつるみがたまらない」とか「あっさりしたスープに見事に調和したつるみに思わず我を忘れた」とか「このえもいわれぬつるみがもたらす無上の悦楽に私たちは果てしなく溺れていくのであった」とかって、まさかそんなことを口走るひとはいないだろうが、とにかく使い勝手がよさそうだ。
 活字界ではどうなのだろう。こちらは保守的で、使うひとはあまりいないように思えるが、そのへんはどうなのか。なにより、怒るひとがいそうだ。まず槍玉にあげられそうなのが、文法的には欠陥に見えがちな点だろう。
 苦みとか赤みといった連中と見かけが似ているところに陥穽がある。この一派は形容詞から名詞に転化した苦難の歴史を背負っているわけだが、「つるい」という形容詞は存在しない。方言としてはあるかもしれないが、ややこしくなるのでここでは知らんぷり。「つるみ」はただ、「つるつる」または「つるっ」といった擬態語から取り出された「つる」と、「み」が合体したに過ぎない。「つる」は断じて形容詞の語幹ではないのだ。問題は「み」で、この出自がどうも怪しい。苦みとか赤みを名詞たらしめているあの語幹にへばりつく「み」が流用されているとしか思えない。なんとも、みのほど知らずな「み」なのだ。本来の用法を故意に無視してカタチだけを真似ている気配がある。そうした暗い出生に引け目を感じてみの置きどころがないという態度を見せるかと思うとそうではなく、「つるみ」は「本来の用法とはなんだ、誰が本来と決めたのだ、わしは知らんもんね」などとあっけらかんとしているのだ。一筋縄ではいかない確信犯である。
 しかし、そういった文法的観点をあざわらう成立過程があるのではないか、とも思える。
 この言葉を初めて世に送り出したのが某即席麺メーカーの研究所であるかもしれない。横浜は鶴見にあるこの研究所で開発された麺が画期的につるつるだったことから発祥した言葉ではないとは誰にも否定できまい。できるか、でへへ。いやそうではなく、主任開発員の苗字が鶴見であっただけかもしれない。鶴美さんという女性であっただけかもしれない。あまつさえ、鶴見鶴美さんだったらどうするつもりだ? って、いったい私は誰に迫っているのか。
 はたまた、外来語である可能性も否定できない。まあ、外来語というのももはや古めかしい言葉で、外から来るわけではなく強引に外から連行してくる場合が多い昨今ではなんというのか知らないので、とりあえず外来語としておくが、たとえばアマゾンの奥地に棲むマヤカナ族が主食であるラハイヘビを生で飲み込むときの感じを彼等は「ツルミ」と表現するのかもしれない、って、どこまででっちあげるか私は。
 とはいっても、ひとりの広告屋さんが立食いそばを啜っている瞬間に閃いちゃっただけだったりするんだろうなあ。

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147 97.11.20 「甘くても辛くても」

「これ以上、幸せになんてなれないっ」
 と、雌叫びをあげたのは、島袋美紀さん(24歳、会社員)である。氏名年齢職業についてはこちらが勝手に想定しているだけなので、このいいかげんな手掛かりだけを頼りに那覇の街で彼女を尋ね歩くのはやめよう。
 那覇市の港湾部を臨むホテルの十二階に、そのバーはあった。カウンター席に、私はいた。バーテンダーの背後はガラス張りで、カウンター席に座ると夜更けの東シナ海が見える。私は三杯目のブラディメアリを飲みながら、内間康平さん(31歳、バーテンダー)と話していた。彼の素性も適当な想定なので探すのはやめよう。議題は、ブラディメアリに使用するトマトジュースである。結論からいえば、デルモンテであった。私は間違っていなかったっ。やはりデルモンテだったのだ。根掘り葉掘り聞くと、オープンの際に何種類ものトマトジュースを試してデルモンテに決定したという。そうだろうそうだろう。私もその結論に達してますとも内間さん。
 おこがましいが、大半のバーで出てくるブラディメアリは、私にもつくることができる。シェイクものは手も足も出ないが、ステアものは素人でも場数を踏めばなんとかなるものだ。必要なものを必要なだけ投入して混ぜればいい。気合や信念なども一緒に。
 とはいえ、バーで飲むカクテルには私がつくるものにはないものがいっぱい詰まっている。嗜む機会があれば逃してはならない。私は内間さんとブラディメアリについて語りながら、どんどん気持ちよくなっていくのであった。
「これ以上、幸せになんてなれないっ」
 私の席からスツールひとつおいて右隣にいた島袋さんも、ひたすらに気持ちよくなっているようであった。私は感動した。なにしろ気持ちよくなっているので、すぐ感動してしまうのである。ええセリフやなあ、となぜか上方風味で胸を打たれるのであった。おいしそうに飲酒する女性に過度の好感を抱く欠陥が招いたあやふやな思い込みなのだが、島袋さんってなんて素晴らしい女性なんだろうと、強く断定する私なのであった。
 そうかといって、その後の島袋さんと私がねんごろになり那覇の夜を熱く焦がしたかというと、もちろんそんなことはないのである。島袋さんのそのまた隣には彼女と染色体の数が異なる連れがいたからである。しかし、自ら進んでもちろんと断定することはないな。
 島袋さんと内間さんの会話を聞いていたところ、内間さんが島袋さんの要請によって即興のオリジナルカクテルをつくったことがわかった。ココナッツミルクとカルーアが島袋さんを幸せの絶頂に導いたらしい。
 はあ。なんだかそのカクテルは、私が永遠に近づかない場所にあるとしか思えない。よくもまあ、そんな甘ったるい酒が飲めるものである。しかし、無邪気にはしゃぐ島袋さんの姿は、カウンターにいた客のすべてをにこにこさせてしまうのであった。私も自然に顔がほころんでしまうのを抑えきれなかった。
 内間さんも気をよくしたらしく、私のもとへやってくると「メニューにはないんですけど、オリジナルのブラディメアリがあるんですが」と言った。
 ななななななぜそれを先に言わぬ。「くださいっ」
「辛いですよ」
「くださいっ」
「ほんとうに辛いですよ」
「くださいっ」
 どうも、むやみやたらには出さないカクテルらしい。どうやら私は「合格」したようである。ただただ嬉しい。
 内間さんはごそごそと広口の瓶を取り出した。
「なんですか、それ」横から島袋さんが、身を引きながら問いかける。
「ウォッカですよ」と、内間さん。「唐辛子とレモンの皮とハーブとその他いろいろ漬け込んであるんです」
 私はもう、うっとり。
「そんなの、飲めるんですかあ」
 島袋さんが呆れたように私を見た。私はおごそかにうなずいた。よいではないか。君は甘いカクテルを飲め、私は辛いカクテルを飲む。お互いにおいしければそれでよいではないか。
 ここはバーである。
 内間さんはカクテルグラスにスノースタイルをつくった。やややや。カクテルグラスときたか。そんなブラディメアリは知らんぞ。わくわく。あ。なぜシェイカーを取り出すか。シェイクか、シェイクするのか。わくわく。
 すすすっと目の前に差し出されたカクテルグラスに、内間さんは赤濁した液体を注いだ。
 好奇心を露にした島袋さんの視線を感じながら、私は、飲んだ。
「う、 、 、うまい」
 いやはやどうも、実になんともはや、こりゃあうまかった。
 あっという間に飲み干し、「もう一杯ください」などと口走る始末である。
 内間さんはにこにこして、島袋さんは驚いていた。
 本当に辛い。たちまち汗が吹き出たくらいである。うまいんだから、気にはならないが。
 島袋さんのように無邪気になるにはこれまでの時間が邪魔をしすぎて、これ以上の幸せがないとはけして思えない。とはいえ、幸せであることに疑いの余地はなかった。幸せである。
 更に一杯を堪能して席を立つときに、私は、かねてからいつか機会があったら言ってやろうと心に期していた言葉を、生まれて初めて口にした。
「おいしいお酒を、ありがとう」

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148 97.11.25 「十円玉を見送る」

 昭和38年といえば、たとえばアメリカで「スキヤキ」がヒットした年であり、とにかく昔だ。その頃から十円玉をやっているのだから、この十円玉も様々な修羅場をくぐり抜けてきたことであろう。幼い松田聖子に握りしめられて駄菓子の対価となったことがあるかもしれないし、ペットボトルに詰め込まれて年末の日本武道館でスポットライトを浴びたかもしれない。あなたの財布で過ごした束の間の日々があったかもしれない。
 つい先頃からは、私の財布の中で次なる流通の時を待っている。
 その存在に気づいたのは今朝のことで、JRの券売機に無視されたことで私はこの十円玉を認識するに至った。券売機のセンサーが十円玉と見做してくれない。何度投入してもそのたびに吐き出される。その後、煙草や清涼飲料水の自動販売機で試してみたが、やはり結果は同じだった。機械は彼に十円の価値を認めない。偽造貨幣と同等の冷ややかな扱いである。五百円玉の偽造硬貨出現によってセンサーの精度設定が高められる風潮があるという話も聞くが、その余波であろうか。
 思い返せば、何日か前から時々自動販売機をただ通過するだけの十円玉があったが、それがこの十円玉だったのだろう。その間、対面販売の支払いで十円玉を手渡したこともあったはずだが、彼は巧みに逃れて私の財布の中に居座り続けたらしい。
 今しみじみと眺めやると、たしかにあちこちに傷がある。戦場を駆け抜けた三十有余年が彼に残した傷跡だ。苦難に満ちた彼の生きざまが忍ばれよう。更には、表面の文様がかなり摺り減っている。激動の時代をしたたかに生き抜いてきた彼は、身を摺り減らしながら己の任務をまっとうしてきたのだ。
 それをどうであろう。機械は彼を認めないのだ。十円玉として過ごしてきた彼の半生を黙殺しようというのである。そんな倣岸な態度がいったい許されるだろうか。経済大国ニッポンを蔭ながら支えてきた彼の歳月をなんと心得るか。
 とはいえ、彼もそろそろ第一線から退く頃合ではないか。後進に道を譲る潮時ではないだろうか。生まれたときから自動販売機に取り囲まれていた平成生まれの若人に、後事を託してもよいのではないか。
 たしかに時代は移ろい過ぎた。彼が誕生したときの価値を今の十円は持ち得ない。彼も昔の彼ではない。
 もういい、君はよくやった。引き際が肝心だ。私が介錯してしんぜよう。永遠の眠り就いてみてはどうか。もう機械だらけの世界へ戻る必要はない。人の手から手へと受け渡された甘美な記憶を抱いて、ゆっくり眠ってくれ。喪主は私が引き受けよう。
 なんらかの法令を犯しているとは思うが、土葬することにする。人間の葬儀の喪主を務めたことはあるが、硬貨のそれは初体験である。なにもかも取り仕切ってくれる葬儀屋さんはいない。お経など知らないので、とりあえず「上を向いて歩こう」を歌ってみた。一番は滞りなく歌うことができたが、二番の歌詞が思い出せなかったので、うやむやに打ち切る。埋葬するのは、部屋の片隅にあるポトスの鉢植えだ。根っこを掻き分けながら手厚く葬った。厚紙で墓碑をつくり、突き刺した。碑銘は「名も知れぬ戦士、ここに眠る。……なにが経済大国か」とした。我ながらセンスがない。最後に、三回まわってわんと言って、葬儀を終えた。
 さて、そんなことをしている場合ではなかった。
 なにしろ私はこれでも忙しいのだ。

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149 97.11.27 「晩秋のキャンプ」

 いったい、いつの間に約束していたのか。さっぱり憶えていない。憶えてはいないが、我が甥であるところの勘太郎は、私が確かに約束したと主張するのである。オレはそのとき飲酒していたか、と問うと、よっぱらっていた、とのお答えだ。
 ならば、やむをえない。酩酊していたとはいえ、約束は約束だ。しらばっくれようと考えたのは事実だが、土曜午前九時の玄関先で、勘太郎は上目使いに私をじっと見つめるのであった。起き抜けで寝惚け眼の私は、たじろいだ。勘太郎の手にはバッグが握られている。着替えが入っているのであろう。私の敗北は明白であった。
「そ、そうだったな。キャンプな、キャンプ。す、すまんすまん。寝過ごしちゃったよ。あははは、は、はは」
 ああ、連休の神様、私に安息は許されないのでしょうか。
 許されないのである。勘太郎を連れてキャンプである。かねてより愉しみにしていたキャンプである。この日を待ち望んだキャンプである。私は知らなかったが、原勘太郎(12歳、小学生)の胸中では、そのようなプランが着々と進行していたのだ。
 給料前でカネもあんまりないことだし、うだうだ~っと寝てよおっと、というきわめて綿密な私の連休計画は幻と化した。
 予想もしていなかった展開の挙げ句、二時間後には、助手席に勘太郎を乗せて常磐自動車道を北上しているのであった。
 水戸インターで降りて、途中で食糧及び酒精の買い出しをする。ついでに勘太郎の着替えを調べたところ、事態をあまりに楽観視していることがわかった。急遽、厚手のセーターと目が密な生地でできたブルゾンを探し出し、泣く泣く購入する。
「こんなかっこわるいの、やだよ」
「ばかもの。デザインを云々している場合じゃないんだ」
 使うとは思いもしなかったクレジットカードで、勘太郎の額をひっぱたいてやった。秋キャンプを舐めるんじゃない。防寒対策は真冬を想定しなけりゃならんのだ。
 昼過ぎに現地に到着。とにかく昼食だ。備長炭を熾して七輪で餅を焼き、磯辺巻を三つほど食わせてごまかす。
 那珂川畔のこの河原はキャンプ場ではないが、すぐ傍にある道の駅とセブンイレブンでたいがいのものが揃う。それでいながら、いかにもキャンプをしてくださいといわんばかりののんびりした雰囲気が漂う恰好の野営地である。私のキャンプはただ単に星空の下で飲酒できさえすれば、どこであろうと気にしない。なによりここには水道とトイレがある。このふたつがあれば、どこだって野営に問題はない。なんでもこのあたりは関東の嵐山というのだそうであるが、なんとか銀座といった感覚でつけられたキャプションなのであろう。
 腹がくちくなれば、こころにゆとりが生じる。童心というものがにょきにょきと出現するのを抑えきれない。河原であり、跳び石がその対象となった。川面に石を投げて、何回跳ねるかを勘太郎と競う。はじめはでたらめだった勘太郎が、すこしばかりコツを伝授すると、たちまち上達してしまった。勝負することになった。先に二十回跳ねたら勝ちで、負けたほうが夕食をつくる。
「むふふふふ。後悔するなよ」
 四半世紀前には跳び石三十二回の未公認記録を持つ私である。負けるわけがないではないか。
 しかし勘太郎は、私の昔とった杵柄というやつをあっけなく打ち砕くのであった。
「えいっっっ」
 ぴょぴょぴょぴょぴょぴょん。
「あ」
 私の杵柄はどうなっているのだ。そもそも杵柄とはなんだ。見たこともないぞ。
 負けてしまった。しくしく泣きながら米を研ぎ始める私ではあった。
 御飯が炊きあがる間にテントを設営しなければならない。勘太郎を指図しつつ、一夜の宿を構築する。勘太郎にとっては初めての野外就寝である。すべてが物珍しいようで、喜々として作業にいそしんでいる。しかし初心者相手では遅々としてはかどらず、次第に陽が陰り始めてしまい、いささかうろたえる。
 素人キャンプというものは、食と住の確保にその時間の大半を費やされる。ほとんどそれしかやっていない。ようやく寝床を確保したときには、御飯が炊きあがっていた。すべておにぎりにしてしまう。
 次に、勘太郎にとってはおかずで私にとっては肴であるところのものをつくる。
 鮭の切り身、たっぷりのバター、適当な野菜をアルミホイルに包んで、七輪上の網に載せる。なんでもアルミホイルに包んで火を通せばなんとかなる、という野外生活基本法第九条第二項但し書きの準用である。そんな法令はないが。
 焼き鳥もつくる。肉を竹串に突き刺すこの単調な作業は思いのほか勘太郎の好評を博した。私は言葉巧みにこやつをそそのかし、ほとんどの工程を勘太郎に委ね切ることに成功した。さきほどの勝負の結果は忘れてしまったらしい。相変わらず騙されやすい奴で、微笑ましい。面倒なことは他人にやらせろ、という野外生活基本法施行令第五条第三項に規定された鉄則だ。だから、ないと言っておろうが。
 調理に用いる七輪とは別に焚き火を熾し、晩餐の準備は整った。
 おにぎりと焼き鳥を焼きながら、だらだらと食する。食事のお供は、私がもはや銘柄を忘れてしまった地酒、勘太郎はウーロン茶。
「あ。おいしい」
 焼きおにぎりを頬張った勘太郎が驚いている。わははは、思い知ったか、おき火の備長炭の底力を。丁寧に少しずつ醤油を染み込ませた私の手腕もさることながら、って自慢してもしょうがないが、やはり火持ちの良い炭にはかなわない。その前には、すべてが無力だ。
 焚き火を囲んで、勘太郎と話をする。失恋したなどと、いかにも焚き火的なことをぬかすので、驚く。
「どういう成り行きで失恋しちゃったんだ?」
「好きじゃなくなっちゃったんだ」
 それは失恋とは違うのではないか。
「失恋するとどんな気持になる?」
「たいしたことないね」
 それはそうであろう。
 将来への展望などというものも語るのであった。絵を描きながら旅をするのだそうである。
「まずはどこへ行くんだ?」
「箱根」
 なんだかよくわからない。
「その次はどこへ行くんだ?」
「ディズニーランドかな。あ。浦安のじゃないよ。アメリカのだよ」
 むきになってフォローするような事柄ではないように思うが。
「どんな絵を描くんだ?」
「きれいな絵だよ」
「漠然としてるなあ」
「いいのっ」
 まあ、よいのであろう。
 そのうちに勘太郎が欠伸をし始め、さすがに冷え込んできたので、いささか早い時間だが就寝することにした。
「夜中にしょんべんしたくなったら勝手に行けよ。懐中電灯はここにあるから」
「起こすからいいよ」
 起こされてたまるものか。トイレまではわりと距離がある。
「怖いのかよ」
「起こすからいいよ」
 怖いらしい。
 結局、夜中の三時に寝惚け眼で連れしょんとなった。
 朝食は夕べの残りで鶏雑炊。食後にお茶など啜りながら、私は文庫本を読み始める。勘太郎はそのへんをほっつき歩いていたかと思うと、そのうちにバッグからスケッチブックなどを取り出した。下流のほうを向いて座り込み、熱心に描き始めた。通りすがりのおねえさんが覗き込んで「上手ね~」などと誉めそやし、勘太郎を増長させる。勘太郎、得意満面である。いかんのではないか。
 オレも原稿用紙を取り出して雑文なんか書いてみよ~かな~、通りすがりのおねえさんが「上手ね~」って誉めてくれるかもしんないな~、などと一瞬自分を見失う。
 しゃくにさわったので、私は勘太郎の絵を酷評するために背後から近寄った。やややや。
「なあに」
 勘太郎が振り仰ぐ。
「い、いや、なんでもない」
 すごすごと引き返す私であった。こやつにこういう才が備わっているとは知らなかった。
 昼過ぎまでかかって勘太郎の絵は完成し、そこで撤退となった。
 車に乗り込む直前に、勘太郎は上流側にある橋を見上げて、ひとりうなずくのであった。
「よし。来週はあの橋を描こうっと。うん、そうしよう」
 ら、来週というのは、なんだ。

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150 97.11.29 「もうすぐ来る」

 我が家において、新築マンション、裏ビデオと並んで迷惑チラシ御三家の一角を担うのが、宅配ピザ屋のチラシである。よそ様のお宅では、また別の御三家があろう。我が家といっても私ひとりで構成されているわけで、迷惑チラシを郵便受けに発見するのは私に他ならない。すぐさま、クズカゴに叩き込む。あ、いまちょっと嘘ついちゃった。裏ビデオのチラシはしばらく眺めてから捨ててるな。ゑへへ。
 かねがね不思議なのだが、宅配ピザ屋というのは、いったい経営が成り立っているのであろうか。あのような代物をわざわざ配達してもらう神経が、まず私には理解できない。そこまでして食したいものなのであろうか。
 かつて一度、我が家を訪れたピザ好きの友人が宅配ピザ屋に電話をしたのだが、あいにく定休日で、その友人はがっかりし私は内心ほっとしたことがあった。ピザという時に役に立たないのである。そういう体験もあって、私の宅配ピザ屋に対する印象は日増しに悪化の一途を辿っている。ピザ自体へのそれもまたしかり。
 私の生活圏へ侵入してこないでほしいと消極的に願っているのだが、そこはピザのやることだから、遠慮というものがないのである。たとえば、洋風居酒屋などで視界に入ってくる。同行の誰かが注文するのである。私は見なかったふりをしてサラダなどつついて御満悦なのだが、「おまえも食えよ」などと最後の一片を差し出されてしまうのである。両手では足りない数の断る理由をすかさず思いつくが、親切で言ってくれているのだから、面倒になって食ってしまう。断るのがめんどくさくて、食うのである。咀嚼しながら、「ピザ食っちゃったなあ」と思う。もしこのとき、「うまいか?」と問われれば「うまい」と答えるだろうし、「まずいだろ」と同意を求められたら「まずい」とうなずくだろう。どうでもいいのである。私は早く安息の地たるサラダに戻りたい。
 ピザである。ピッツァなどともいう。イタリア人が生み出したものは、車にしろファッションにしろ当たり外れが極端で、そこが彼等の愛すべき美点なのだが、私にとってピザは外れである。パスタという絶妙な遺産を未来に伝えた彼等は、その一方でやっぱりピザなどという駄作を産出していたのであった。
 どうも、位置付けがわからない。たとえば、御飯は主食でおせんべは間食である。湿と乾という観点がそれを裏付ける。湿のパスタは主食である。では、ピザはどうなのか。パリパリしている外皮があったかと思えば、生地の内部や具は潤沢だったりする。私としては、はっきりしてもらいたい。いったいあんたは堅いのか柔らかいのか。なによりも、主食なのか間食なのか。どちらでもいける、などという態度は私を激怒させるだけなので、どうかひとつ、ここは自らの氏素性、立場、今後の展望などを明らかにしてもらいたい。返答次第によっては、私にも考えがある。
 さきほど、件の友人が白ワインをぶら下げてやってきた。「なにかツマミが欲しいな」とつぶやき、私の涙の懇願にも関わらず、宅配ピザ屋にLサイズのなんとかというピザを注文したのである。まあ、それはよい。こやつが食えばよいのである。
 しかるに、こやつの恋人よ。なぜにいきなりこやつの携帯電話を鳴らすか。あまつさえ、なぜにこやつを呼び出すか。
 「わりい、わりい」と、こともなげに友を見捨てて立ち去ったあやつもあやつである。私は白ワインとともに、取り残された。
 もうすぐ来る。
 宅配ピザ屋が来るのである。
 逃走するにはもはや遅すぎる。
 部屋の灯りはすべて消した。
 それでもまだ、気の弱い私は、今このとき、居留守を使うか否か大いに迷っているのであった。
 それにしても、この白ワインはうまいな。

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151 97.11.30 「子供にはわからない」

 不覚であった。なぜこんなにも素晴らしい番組の存在に気づかなかったか。
 日曜日だからといってのんべんだらりんと昼前まで眠っていてはいけなかったのだ。私は深く反省している。スクープくん、すまぬ。私は間違っていた。
 NHK総合で午前八時半より放映されている「週刊こどもニュース」が、私を後悔させている。
 ニュースというものを子供にもわかりやすく解説しようという趣旨の番組らしい。子供たちをスタジオに招き、解説委員の要職にある池上さんが世の中に勃発している出来事をわかりやすく解説してくださる。これがたいへんわかりやすく、私も子供であることを再確認できて嬉しいのであった。ニュース番組を見ていてどうもぴんと来ないことが、たちどころに理解できてしまうのである。
 「世の中まとめて一週間」というコーナーに、この番組の有難さが端的に現れる。ビデオ映像を背景にこの一週間を駈け足で振り返るというありきたりの企画だが、キャプションやナレーションがひと味違うのであった。
 山一証券自主廃業のキャプションは、「山一、仕事やめます」である。わかりやすい。スクープくんというアニメ豚のキャラクターはこの番組のあちこちで謎の愛敬を振り撒いているのだが、このコーナーではナレーションを担当する。スクープくんによれば、自主廃業とは「自分で会社をなくすこと」なのであった。なるほど。私は膝を打った。スクープくんはなおも、山一証券が「仕事が続けられなくなった」と冷たく決めつけるのであった。
 「徳陽シティも仕事やめます」と、このネタは続き、スクープくんは「銀行の仕事を続けるお金がなくなりました」とミもフタもなく断ずるのであった。「ことここに至るには、一言では言い尽くせない艱難辛苦があったのだ」と憤る徳陽シティ銀行関係者もあろうが、スクープくんはまったく意に介さず、「お金がなくなりました」で済ませてしまうのであった。ロールプレイングゲイムで「主人公は死にました。もう一度最初から始めますか?」などと言われている気分になる。大した問題じゃないんだな、と錯覚しそうな自分がこわい。
 APECの意義についても、スクープくんは解説してくれる。いやはや、これはわかりやすかった。「アジアのあちこちで経済がうまくいかなくなっている問題を話し合う」のが、今回のAPECである。私はようやく理解できた。それは大切なことである。そんな大切なことだとは知らなかった。あちこち、である。うまくいかなくなっている、のである。「話し合う」のは大切なことなのである。
 「週刊こどもニュース」の構造的欠陥は、NHKらしく堅めのニュースばかり扱うことで、この点、子供の私としては不満である。なんにでも興味を持つのが子供である。「福助さん、うそをつく」といったネタは扱わないのであろうか。「風邪をひいたといって仕事を休んだ福助さんでしたが、本当はよっぱらい運転でつかまっていたのでした」などとスクープくんに語って頂きたいと思うが、やはり無理な願いなのであろうか。
 そのうちに「週刊こどもニュース」は終わり、「日曜討論」が始まった。難しい顔のひとが出てきて難しいことを喋っている。世の中はなんだか大変なことになっているらしい。しかしやっぱり子供には理解できないので、早々にチャンネルを変え、「ゲゲゲの鬼太郎」といったものに見入る私なのではあった。

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152 97.12.01 「素人のあかさたな」

 素人のあかさたな。
 と、うっかり言い間違えた恥しい経験のない方はよもやあるまいとは思いますが、万が一まだやらかしたこのない方がいらっしゃいましたら、早めに言い間違えることを強くお勧めするものです。これははしかと同じようなもので、大人になってからやるといささか厄介なことになります。いわば、はしかのようなものです。はしかをひととおり体験しておくべき重要性は、いみじくも先人が語るところです。私の病気がはしかならば、などと鹿賀丈史になっている場合ではありません。
 あさはかさ、言いにくいものです。あかさたな、と言い間違えてなんの不思議がありましょう。浅墓さ、漢字を思い浮かべて初めて、ようやくぎこちないながらも言えるものです。浅い墓。それはたしかに浅墓ではありましょう。素人は浅墓です。「あかさたな」と言い間違えるほどに。
 胸に手を当てて思い出してみましょう。
 思い出せませんか? あなたは過去のある時点で、たしかに言い間違っているんです。「素人のあかさたな」と、あなたはたしかに口にしているんです。思い出せないだけなんです。
 もしかして、忙しい日々の中で、言い間違ったことにすら気づかないほど、あなたは疲れているんじゃないでしょうか。そう。あなたは憶えていないだけなんです。疲れているんでしょう?
 「あさはかさ」のつもりが、「あかさたな」。幼い頃から馴れ親しんだフレーズが口をついて出たとしても、いったい誰があなたを責められるでしょう。あなたの周囲の人々も、それはわかっています。気づかないふりをして優しく微笑みながら、あなたの言い間違いを不問に付してきたのです。けして咎めることなく、なかったものとしてやりすごしてくれたのです。あなたの記憶にないのは、そうした善意が作用したお蔭に他なりません。
 それにつけても、「あかさたな」。「は」の立場がありません。目の前で扉をぴしゃりと閉ざされて十二支に入り損ねた猫のような立場の「は」は、いったいどうなるのでしょうか。しかし「は」には格助詞という奥の手があるので、ここはひとつぐっとこらえて頂くほかはありません。「わ」の皮を被ることによって「あかさたな」の背後にそっと隠れて密着する裏技を、「は」は既に有しているのです。なんとかこらえて頂きましょう。第一、「は」を例外として認めてしまいますと、「ま」や「や」が黙ってはいないでしょう。「ら」に至っては、寝た子を起こしてしまうかもしれません。その一方で、「いきしちに」も「俺の青春を返せ」などと言い出しかねない不穏な動きを見せております。ナンバー2というものは常に鬱屈を抱えて日々を過ごしているものです。あまつさえ、「おこそとの」といった社会の底辺で健気に生きる彼等の存在も蔑ろにしてはなりません。
 そういった諸々の背景を無視するわけにはいきません。ここはひとつ、「あかさたな」以外のことは考えないことにしましょう。もう、存分に考えてしまいましたが。
 耳を澄ませてください。「あかさたな」の切なる声が聞こえるでしょう。「あたしだけを見つめて。他のひとは見ないで」と。聞こえませんか? なに、聞こえた? それは幻聴です。お医者さんに診てもらったほうがいいでしょう。
 それでもまだ、確信を持って「私は、いまだかつてそんな言い間違いをしたことはない」と胸を張って断言できる方がいらっしゃいましたら、悪いことは言いません。早めに言い間違えて下さい。たいしたことじゃありません。ついうっかり、というのが基本的な用法です。くれぐれも、意図的であると悟られないようにそっと言い間違えてください。
 なにも、つい先日、私がそう言い間違えて赤っ恥をかいたから、言うんじゃないんです。断じて、ないんです。私は、自分が屈辱にまみれたからといって他人にもそれを味わせようなどと考える卑劣漢ではありません。断じて、ありませんっ。

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153 97.12.03 「長大息」

 しょせんは長のつく肩書きが似合わない凡人の悲哀とでもいうのだろうか、「長」という字がうまく書けない。下手である。バランスが悪い。悪筆は悪筆なのだが、私が書くあらゆる文字の中で抜きん出て下手な字が「長」なのである。どういうものか、教科書で初めて出くわした時から今の今まで下手くそなのであった。明日になれば突然うまくなっている、といった類のものではないので、「長」という字が下手なままで死んでいくに違いない。戒名などというものは願わくばつけられたくはないが、関係者にはセケンテイもあるからいくばくかの金銭を支払って戒名を買うだろう。死んでしまったのだから実はどうでもよいが、「長」という字を使うのだけはやめてほしいと切実に思う。ついでながら、「長」という字が下手だった男ここに眠る、などといった墓碑銘を刻むのもやめてもらいたい。その屈辱が私を生き返らせてしまうかもしれない。そういう厄介な事態は、お互い本意ではなかろう。
 もし長井さんの家に生まれていたとしたら、大変なことになっていた。苗字を書くたびに劣等感に苛まれたに違いない。長介と名付けられなくて本当に良かった。いかりやというあだ名には耐えられるかもしれないが、名前を書くたびに己の不器用さ加減に唇を噛みしたあげくに腫れ上がってしまい、あだ名があだ名でなくなってしまうところであった。
 まず上半分を書いたところで事態収拾の目処はいっさい失われている。紙上の四本の横線は平行という概念を粉々に打ち砕き、思い思いの方向を目指している。そのそれぞれの間隔は、等分などといった理想は実のところ幻に過ぎなかったことを痛烈に主張している。もはやこの時点でこの先を書き続ける気力は消え果てているが、一方で嫌なことはさっさと片付けてしまおう、といった少しだけ前向きな人格が出現し、更に投げやりな態度で下半分を書き足すことになる。いきおい、筆跡は粗暴をきわめ、文字と呼ぶにはちょっとアレだなと思わざるを得ない謎の線の集合体が残されるのである。
 そういった永年の辛苦に耐えかね、今後の浮世を「長」の字といかにつきあっていくべきかを御教示願うべく、私は森崎某に相談を持ちかけた。このような人生の根幹にけして関わらない、枝葉の先っぽというか末節の端っこというか、言ってみればどうでもいい問題は、どうでもいい人物が意外な解決策を提示してくれるものである。森崎某は私の友人だが、取るに足らないという点では人後に落ちることはない。うってつけというかきわめつけというかおみおつけというか、この手の相談相手としてしか存在価値のない人材である。
「心配に及ばず」
 との、御神託であった。
「書かねばよい」
 断言するのであった。
「好きな文字だけを書いていればよいではないか」
 べつに他に好きな文字があるわけではない。愛だけを書いていたい詩人がいたとしても、愛という字が好きなわけではなかろう。
「俺は自分の氏名に使われた文字だけが好きだ。それだけしか書かない。おまえのような凡人には信じられないだろうが、それだけが書ければこの世の中なんとかなるものだ。頑として書かなければ、呆れた誰かが代わりに書いてくれるものだ。俺は署名をするだけだ」
 そういうものかもしれぬ。
「おまえも、そうすればよいのだ」
 よいのであろう。
 私は長く大きな溜息をついて、森崎某に背を向けた。眼前には慣れ親しんだ凡人の世界がある。私は明日からも「長」という字を書き続けるだろう。

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154 98.01.25 「草野球中継」

 こんにちは、草野球中継の時間です。解説は、一人二役ですが、原官兵衛さんです。
「原です。よろしくお願いします」
 さて、早速ですが、ゲイムの方に目を向けてみましょう。利根川河川敷の名も知れぬグラウンドで行われている本日の試合は、すでに終盤を迎え、7回まで進んでおります。両チーム関係者以外の観客は私共のほかに、みすぼらしい雑種犬を連れた土地の古老、試合の進行などには一切の興味を示すことなくひたすらにたわむれる若いカップルがあるのみです。
「いや、彼等の場合は、たまたま腰をおろした土手の下の方で偶然草野球が行われていただけなのではないでしょうか」
 なるほど。原さん、毎度のことながら慧眼です。
「いえいえ、それほどでも。しかし、一人二役のくせに誉め合うのはいかがなものかと」
 いやいや、馬鹿のやることですから、視聴者の皆様もまた始まったか程度にしか思いませんよ。
「なんだ君、馬鹿とはなんだ馬鹿とはっ。一人二役といっても、言っていいこととわるいことがあるぞっ」
 言っていいことなんですよ。
「あ、そうなの」
 そうなんです。
 さて、口論の間にもゲイムは8回まで進んでおります。ただいまのスコアは、2対4。先攻の上町ファイアマンズが、ホームチームの本町ショップスに2点のリードを許しております。
「ファイアマンズは上町消防団のOBチーム、ショップスは本町商店街の若手有志が結成したチームですね。ちなみに、これは私の慧眼です」
 8回裏、ショップスの攻撃。このイニングの先頭打者は昨年まで地元の高校の野球部で4番を打っていた山内選手です。強打者です。
「慧眼なんだよ」
 なお、山内選手の経歴は、飛び交う野次によって明らかとなっております。
「慧眼なんだけどね」
 対するは、ファイアマンズの最年長投手、長谷川です。昨夜の深酒がたたってか、球が上擦っています。
「ぐすん」
 なお、地元で自動車修理業を手広く営む長谷川投手は、昨夜もスナック楓のカナちゃんを愛人にすべく奮闘した模様ですが、またもあえなく失敗したと、野次が物語っております。
「長谷川投手、カネの力ではままならないこともある現実を思い知るべきですね」
 これは原さん、うがった見解ですね。
「うがってみました」
 あ、山内、打ちました。いい当りです。レフト、バックバック、あ、ころんだ。ファイアマンズのレフト佐々木、ころびました。ボールが転々とする間に、山内、駿足をとばして三塁を陥れました。三塁打です。
 長谷川、なにか叫んでいます。減給です。エラーを犯したレフト佐々木に減給処分が下されました。佐々木選手は、株式会社長谷川自動車工業の社員である模様です。長谷川投手、公私混同の暴挙に出ました。
 この処分はどうも、冗談ではないようです。過去にもそんな事例が多々あった模様です。
「長谷川投手、労働基準局をまったく恐れていませんね」
 あ。長谷川、今度はワイルドピッチです。ランナー山内、楽々とホームイン。これでスコアは2対5。ファイアマンズ、窮地に立たされました。
「そろそろ、降板の潮時ではないでしょうか。ストライクとボールが明らかですし、球の伸びも衰えてきたようです」
 しかし続投です。長谷川、続投です。近寄ってきたキャッチャーを追い返しました。
「どうやら、ファイアマンズは長谷川投手のワンマンチームのようですね」
 長谷川投手、四球をひとつ与えながらも、後続をなんとか抑え、なんとか8回を乗り切りました。
 最終回、ファイアマンズ最後の攻撃です。
 ここで、ファイアマンズは驚異の粘りを見せました。二死満塁、バッターはあの佐々木です。あ、長谷川選手から大声の野次が飛びました。公約です。長谷川選手からの公約が発表されました。ホームランを打ったら、減給撤回とのことです。
 佐々木、大きくうなずきました。気合が入っています。ホームランを打てば逆転の場面ですが、原さん、どう見ますか。
「佐々木選手の性格によるでしょう。私のみるところ、凡打に終わりますね。佐々木選手はそういうタイプです」
 打った。佐々木、打ちました。これは大きい。越えるか、フェンスを越えるか。越えた。ホームランです。大逆転です。
 佐々木、チームメイトの手荒い祝福を受けながら、歓喜のホームインです。6対5。ファイアマンズ、最後の最後で、この試合はじめてのリードを奪いました。
 原さん、佐々木選手は見事でしたね。
「私は、佐々木選手はやってくれると思っていました」
 ……。
「……」
 あ。興奮した長谷川選手がなにか言っていますね。第二の公約です。またしても、公約が発表されました。このままこの試合に勝った場合、佐々木選手を課長に昇進させるとの英断です。
 株式会社長谷川自動車工業、その人事はめちゃくちゃです。
「人事を壟断、とは正に長谷川選手のためにあることばですね」
 9回の裏、ショップス最後の攻撃です。こちらも若いながらもしぶとく繋ぎ、強打者山内を迎えました。ツーアウトながらも、一、二塁にランナーを送り出しております。一打同点、長打が出れば逆転サヨナラという緊迫した場面です。
 ここで、山内選手に関する情報が入ってきました。山内選手は昨夜、童貞を失ったとのことです。この味方選手からの心ない野次に、山内、明らかに動転しています。
「これは、勝負を分ける野次となるかもしれません」
 予想通り、ファイアマンズナインから、いっせいにえげつない野次が飛び始めました。
「山内くん、これはこたえるでしょう」
 三振です。山内、三振。ゲームセット。ファイアマンズ、6対5で鮮やかな逆転勝ち。佐々木選手は課長に昇進です。
 あ。山内選手、味方選手に殴りかかりました。野次った選手でしょうか。
「無理もないところです。あの野次が命取りになりました」
 山内選手の興奮は冷めません。ファイアマンズの選手達も割って入っています。
「さて、はやく帰りましょう。ここは寒いです」
 それでは、なおも乱闘が続く利根川河川敷グラウンドから、お別れ致します。
 ごきげんよう、さようなら。

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155 98.01.26 「風に吹かれて」

 台所で、私は思わず笑っちゃったのである。
 いまどき、こんな姑息な手口に引っかかっちゃうとはなあ。迂濶であった。
 引っかけた方も、こんな安直な手法に騙される奴はまさかいないだろう、と思ってやってるんだろうなあ。しかしながら、私は騙されちゃったのである。粗忽であった。
 飲酒の支度をしていた私は、とあるパックを手にして驚き、その後すかさず笑っちゃったのであった。先ほどスーパーで、「お、安いじゃん」などと、振り返ればきわめて間の抜けた独り言をぬかしながら買い求めたパックである。中身はマグロの中落ちである。と、いうのが、私の認識であった。
 しかし、誤った認識はその誤謬を指摘される時がいつかは訪れるものである。パックには「中落ち」とのシールが貼られていた、はずだった。そうではなかった。「中落ち」のあとに、たいへん小さく「風」という文字付け加えられていたのである。
「うひゃひゃひゃ」
 なんでこんなのに引っかかっちゃうかなあ。まだまだ私も捨てたものではないようである。こんなに晴れ晴れとした気分で笑ったのは久し振りだ。いやはや、これはまったくもって間の抜けた所業である。やればできるじゃないか、私よ。やはり、時にはこういう些細な失敗を招いて、退屈な人生を実り多いものに変えていきたいものではないか諸君。って、誰も聞いてないか。
 「風」である。「中落ち風」である。中落ちではないと、宣言しているのである。手打ち風そばが手打ちではないように、けして中落ちではないのである。あくまで、中落ち風のマグロに他ならない。中落ちの風上にもおけない輩なのであった。
 見方によっては、風流ではあるかもしれない。すくなくとも、中落ち虱よりは救われる。私はいそいそと支度を完了し、追い風を受けたこの風変わりな代物を食した。
 ぜんぜん、うまくない。脂の乗っていない赤身を単にスライスしたに過ぎない。刺身としては売り物になりそうもないとの風評を受けた部分なのであろう。廃棄寸前だったのかもしれない。しかし風前の灯火だったこのマグロの命脈は、捨てるのもアレだな、といったコスト意識が露骨に反映された戦略のもとに再生されたに違いない。流通業界はどこにでも風穴を開けるものである。それを風采のあがらないこの粗忽者が購入に及んだ。そういう風な筋書きのようであった。
「いやあ、まいったまいった」
 などと独白しつつ、ついつい顔がほころんでしまう私なのではあった。そろそろ、あぶないかもしれない。
 私達は常に風の有無を確かめながら、生きていかねばならない。この教訓を風化させてはならない。逆風に負けず、臆病風にも吹かれることなく、後世に伝えていこうと思う。いつか、風の便りにこの風説を耳にしたら、諸国を行脚する私のことをすこし思い出してほしい。って、そんな疲れそうなことはやらないが。
 それにつけても、なにゆえにマグロの中落ちはうまいのか。
 もちろんお約束通りに、答は風の中にあるのである。

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156 98.01.29 「天使は舞い降りた」

 朝の職場において、シゴトにかかる前の短い時間に、本日の工程を脳裏に組み立てながら、お茶をすする。煙草をくゆらせるひともいるだろう。それはごくありきたりの情景である。
 どちらも口を使わねばならない。そして、私の口はひとつである。三枚の舌がある、といった謂れのある非難を浴びることはあるが、あくまで口はひとつしか有してはいない。
 煙草をくわえていることを失念してついうっかり湯呑茶碗を口元に運び、あまつさえその茶を飲もうとした男の末路には、余人にはなかなか理解し難いしみじみとした寂しさが待っている。煙草が湯呑茶碗の縁に引っかかることもなく、すっと茶碗の中に入ってしまったとあっては、その寂しさもひとしおである。
 せめて茶柱の有無を事前に確認するようなココロのゆとりがあれば、そんな事故は起こらなかったかもしれない。しかし実際には、忙しくなりそうな本日の段取りに思考は忙殺され、ただ無意識に朝のお茶を口元に運んでしまった。お茶に煙草柱をたてたところで、いいことがあるわけではない。むしろ、よくないことの幕開けとして、これ以上ふさわしい失態はないのではないか。たいがいの不幸は、ほんのささいな破綻から始まる。そして、不幸の予兆には、悔恨に苛まれながら時間を遡ったときにはじめて、その正体を白状する悪い癖がある。
 あとで判明したのだが、不幸の天使竹田弘子は、このとき既に歓喜の予感に貫かれていたらしい。くわえ煙草で湯呑茶碗を取り上げた私の姿を発見し、大喜びで物陰に隠れた、という。大喜びで隠れた、とは、なんたる言い草であろうか。
 じゅ。
 まず、鼓膜が最初に異変を察知した。それが、予兆であった。
 それは煙草の火がお茶によって消された音、あるいはお茶が煙草の火を消した音である。この現象の説明として科学者はまた別の表現を弄することであろうが、私にとっては己の失態を気づかせる音以外のなにものでもなかった。じゅ。私は驚き、混乱した。
 飲み干そうとする腕の動きを慌てて抑えようとしたが、事態は悪化の一途を辿った。
 慣性は、むろん私の心理状態には無頓着に作用する。湯呑茶碗の中の液体は私の口の周囲に一気に押し寄せた。煙草をくわえたままなのだから、唇が受けの態勢になっているはずもなく、必然的に溢れだした。万有引力は、私にもあなたにもお茶にも作用している。お茶はこぼれた。いや、単なるお茶ではない。煙草の灰が浮かび、ニコチンやタールなどが融けだしているかもしれない。一瞬前までは一介のお茶だったのだが、もはや取り返しのつかないお茶と化した液体である。それが、溢れ、こぼれた。あとは、落ちていくしかなかった。
 ここに、濁った謎の液体がわずかに残った湯呑茶碗を手に、吸いかけの濡れた煙草をくわえ、ネクタイを濡らして呆然とする男、というものが誕生したのであった。
 滑稽ではあろう。しかも、ようやく事態を把握した男は、激しく狼狽しているのである。このとき竹田弘子は、激しくこみあげる爆笑を阻止するのにたいへん苦労したと、のちに語るのであった。
 ようやく自分が何をしたかを理解した私は、すかさずあたりを見回した。様々な思惑が瞬時に胸裏に去来した。誰かに見られていたら、間髪を入れず気の利いた冗談をかましてすべてをうやむやにせねばならぬ。取り繕わねばならぬ。誰も見ていなかったのならば、こっそりとネクタイを替え何事もなかったように振舞わねばならぬ。気取られてはならぬ。どちらだ。
 あたりに人影はなかった。私はここでも例によって決定的な過ちを犯した。私が下した判断は、後者であった。よりによって最悪の人物に露見していたのだが、そんなことは思いも寄らない。
 よかった。誰にも見られてなくて。
 私は心底から安堵し、素知らぬ顔で更衣室に向かい、万が一のときのために準備しておいたネクタイを締め直した。自席に戻った私は、何食わぬ顔で本日の業務を開始した。
 糊塗は完璧であった。
 だが、見られていたのである。こともあろうに、竹田弘子に一部始終を目撃されていたのである。
 竹田弘子は、どうも人間が軽い。夫も子もあり、仕事もよくできる。この人物の難点は、いつまでたっても悪戯心が抜けないことに尽きる。ヨワイ40を重ね、その軽さにはますます磨きがかかっているとの噂だ。最近では、神出鬼没という得意技の開発に余念がないとも伝え聞く。
「見たわよ」
 本日の昼食時にも、いきなり出現した。近寄ってくる気配がまったくなかった。もっとも、私が「三笑亭」のホイコーロー定食に魂を奪われ、無心にむさぼり食っていたことは否定できないが。
 遠慮会釈もなく私の向かい側の席に座り込んだ竹田弘子は、意味深長な表情っていうのはこうやってつくるのよ、とでも言いたげな含み笑いを見せるのであった。
 私が事態の激変にうろたえていると、竹田弘子は店の奥に向かって大声を張り上げた。「ラーメンくださあいっ」
 そして再び私を見据えて、あらためて言うのであった。
「見たわよ、今朝」
 私の脳裏に、今朝ほどの失態の記憶が浮上した。慌てて、それを押し戻した。私は内心で激しくかぶりを振った。あれは誰も知らないことなのだ。私だけの胸のうちにそっとしまいこまれ、二度とは取り出されることのないちっぽけな記憶なのだ。
「なに言ってんだか、わかんないよ」
 私は取り澄ました口調を装い、とぼけてみせた。微かではあるが確かな敗北の予感を覚えてはいたが、私にもわずかばかりの意地はある。ささやかな抵抗の痕跡は残したい。
 竹田弘子にすべてを目撃されたことに疑いの余地はなかった。私の頼りない理性は、 この不幸の天使が目の前に舞い降りた瞬間からそれを認めていた。つまらない抵抗は、惑乱した感情をなだめるためだけの手続に過ぎなかった。
「いま、自分はすぐに諦めるに違いない、って思いながら、演技してるでしょ」
 竹田弘子は、いきなり核心をついてきた。
「いいのよ、無理しないで。どうせ、あんたは私には勝てないんだから」
 酷い侮辱である。これほど無礼な物言いがあろうか。しかも、それはまったく正しいのである。事実を事実としてあからさまに指摘されることによって傷を負う魂が存在することを、竹田弘子はいったいどのように考えているのであろうか。
「べつにたいしたことじゃないだろ。あんなことくらい」
 漠然と予感していたとおりにすぐさま敗北を受容した私は、何段階かの虚しいであろうやりとりを素っ飛ばして、弱々しく言いつのった。
 とたんに、竹田弘子はにんまりと笑った。
「初めから素直に認めればいいのに。子供ね」
 竹田弘子は、見慣れた表情と口調で決めつけた。即ち、勝ち誇った表情と勝ち誇った口調だ。どっちが子供なんだか。自分だけが発見した他人の粗忽を、なにゆえにそこまで宝物のように取り扱うのか。
「あのさあ、そんなに愉しいわけ? ひとの失敗が」
 それが彼女の性癖といえばそれまでだが、何度も辛い目に遭っている私としては、やはり警戒せざるをえない。
「愉しいわよう。あんたは」
 即座に言い切りやがった。私としては憮然とする他はない。
「あんときのあんたの顔、見せてあげたかったわよ。情けなかったわよう」
 見たいわけがあるものか、そんな惨めな己の姿を。
 その後も竹田弘子は、私の滑稽さ加減を身振り手振りを大袈裟にまじえて再現し、私の憂鬱の増幅に専念するのであった。
「ラーメン食えば? のびちゃうよ」
 その一言だけが、私の唯一の反抗であった。私は、自分に強く言い聞かせた。オレは竹田弘子に敗北するために、ほんのすこしの間この世に寄り道をしただけなのだ。オレの棲むべき世界は、きっとどこか他のところにあるに違いないのだ。
 しかし、私にはこの世界でやらなければならないことがあった。午後には、外出しなければならないシゴトがあった。私は暗澹としたまま出掛け、重い心を抱えて帰社した。
 予想にたがわぬ展開が私を待ち受けていた。
 私の噂でもちきりだった。私は、「灰皿が見当たらないので、お茶で火を消し、しかももったいないのでそのお茶をすべて飲み干した男」というものになっていた。竹田弘子の仕業であろう。「シナモンスティックのように煙草を操る変人」という風評もあった。竹田弘子の所業に違いない。「ニコチン中毒で手が震えて、満足にお茶も飲めない」とする見解もあった。竹田弘子の所為に他ならない。
 ついには、交通費の精算をしに行った総務部において、私は「ニコチン健康法を実践する破廉恥漢」となり果てていた。私は静かに笑って、交通費を受け取った。いったい、他になにができるだろう。
 重い足取りで自席に戻ると、不幸の天使が近寄ってきた。竹田弘子は、満面に会心の笑みをたたえ、放言した。
「どう? たまにはいいでしょ? こんな歓迎」
 私は、煙草に火をつけて、白旗をあげた。
「たまには、ね」
 そうつぶやいた瞬間、私は不意に、ただ無性に海を見に行きたい衝動に襲われた。私は目を閉じた。じゅ、という音が鼓膜に甦り、幻聴の波音がそれをすぐに掻き消した。
 私は目を開き、もう一度言った。
「たまには、いいもんだよ」
 私は解放された。
 一瞬だけだったが。
 一瞬しか、竹田弘子が許してくれるはずがないのだ。竹田弘子は竹田弘子であった。不幸の天使は、あくまで私の優位に立とうと固執するのであった。
 これ以上はないと思えるすがすがしい笑みをみなぎらせて、竹田弘子は言い放った。
「この次は、もっとスゴイわよん」
 ただ、瞳だけが、笑っていなかった。
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157 98.01.31 「新宿駅の蕎麦」

 もはや史実と化したが、JRはその頃、国鉄と呼ばれていた。
 ついこの間のようだが、ふと気づけばかなりの歳月が流れている出来事だ。
 大学生だった我々は、新宿駅西口の改札口の外で、「本日の昼食はいかにあるべきか」といった命題について討論していた。カレーだのカツ丼だのスパゲティだの、我々はどこから来てどこへ行くのだ、といった類の主題である。
 議論は紛糾し、次第に興奮の度合いが高まってきた。「なんだとこの野郎、オモテへ出ろ」「なにを言ってやがる。ここはオモテだ」「いや、屋根があるこの場所はオモテとは言わないのではないか」「いやいや、そういうことではなく公衆の面前という環境こそをオモテということばに集約した発言ではなかったか」「それは好意的に過ぎる解釈ではないか。ことばは環境に左右される存在ではない」「なにをオモテ~話をしているのだ。俺にはわからん」「し~~ん」というような話をしているうちに、いよいよ空腹は耐えかねる段階に達してきた。
 そのとき、それまで沈黙を保っていたひとりがおごそかに申し述べた。
「蕎麦を食おうではないか」
 つまるところ誰もが自説にこだわっているわけではないので、世論はすかさず蕎麦方面へ雪崩れこんだ。
「幸い、私はたいへんうまい蕎麦屋を知っている」
 彼は、決定打を放った。
 声にならないどよめきが一同の間から湧き起こった。実にどうも、彼はこの瞬間から救世主となったのだ。
「しかも、安い」
「おおっ」
 救世主のだめ押しに、信者はひれ伏すのであった。
 救世主は、国鉄の改札口へと迷える子羊達を導いた。
「楽園は東口にあるらしいぞ。駅の構内を横断するらしい」「俺は国鉄の定期を持っていないのだが」「入場券を買え。楽園に行きたくはないのか」「すまん。俺が間違っていた」
 救世主は、先頭に立って歩いていく。自信に満ちた足取りだ。
 従容と、信者は従った。
 ほどなくして、救世主は券売機の前にたたずんだ。
「ここだよっ」
 救世主は、喜々とした口調で宣言した。
 信者は呆気にとられた。ここは駅の構内である。東口の改札口を出るのではなかったのか。ここは、立ち食い蕎麦屋の前である。当然のことながら、券売機ではそばやうどんを売っている。
 信者の信仰は、一瞬のうちに踏みにじられた。
「駅そばじゃねえかよっ」
「馬鹿にしてんのかっ」
 たちまち、罵声があがった。こういったときのために、罵声は存在を赦されているのだ。当然であろう。
「ゑ? この店、うまいんだけどなあ」
 元救世主は、彼の元信者がなぜ怒っているのか、まったくわかっていないようであった。
 悲惨なのは、入場券を買って駅そばを食うはめになった男で、彼は入場券と月見そばの券を見較べながら途方に暮れていた。
「そんだけの価値はあるよ。もう、うまいんだから、ここ」
 えへらえへらと笑いながら、元救世主は不運な男を慰めていた。
 悪びれることがない。元救世主にとって、そのとき本当にうまい蕎麦とは、この立ち食い蕎麦屋の山菜そばだったのだ。
 そうはいっても、披露宴の席でこの話を暴露された元救世主にとっては、思い出したくはない逸話であったかもしれない。

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158 98.02.01 「違和感を携えながら」

 ついに時流に押し流され、不釣合この上ない携帯電話などといった代物を購入してしまったのだが、予想通り、やはりどうにもぎこちない。街角で携帯電話を手にしていると、道行く方々にはさぞかし不似合な姿に映っているのだろうなあ、などと考えてしまう。世間が私などに興味を抱くはずはないのだが、ついついそういった益体もないことに思いを馳せてしまうのであった。
 歩道に立ち止まってどこか遠くにいる誰かに話しかけている己の姿を想像すると、なんともはや見苦しい。苦笑が浮かぶ。他の方々の同様のお姿にはなんの違和感も覚えることはないのだが、こと自分となるとやはり似合わない。なぜ自分だけをそう決めつけるのか、そのあたりの心理経過がいまひとつ理解しかねるが、とにかく違和感だらけだ。電話会社を選ぶ際にNTTドコモはハナから念頭になかったあたりにその傍証が潜んでいる気もしたりしなかったりするが、結局のところ自分のことは自分にはわからない。
 自分がわからないのはちっともかまわない。生活していく上では無用の事柄である。しかし、我が所有物となった携帯電話の使い方がわからないのは、たいへん困る。使うために買ったのに、使えないのである。私は使えない奴としてここいらじゃ知らない者はいないが、だからといって使えないものを蒐集する趣味はないのである。
 学ばねばならない。
 1.3秒以上押せ、とマニュアルは語るのであった。そのボタンを1.3秒以上押し続けるのと1.3秒未満押すのとでは、まるっきりその結果が違うのであった。
 あまたの機能を数少ないボタンに割り当てようとすると、必然的にそうした展開になるのであろう。シフトキイやコントロールキイを押しながらというような、キイコンビネイションという手法は、片手で操作する携帯電話には馴染まない。一時に押すボタンはひとつでなければならない。そこで編み出されたのが「押し続ける」という手法であったらしい。
 押し続けていると身に染みて実感するのだが、1.3秒はたいへん長い時間である。待つ身にとっては、じれったい。こうしている間にも、カップ麺ができあがってしまうのではないか、と思う。この貴重な時間が経過する間に、アメリカ合衆国大統領が辞任しドルが暴落しているのではないか、とも思う。それほど長い。操作が完了したときには、次になにをすべきかすっかり忘れている。
 おそるべきことに、「押し続ける」ばかりではなく、お馴染のダブルクリックという手法も同じボタンに割り当てられているのであった。マニュアルは、ダブルクリックとは語っていない。「二回押す」である。どちらでもいい。もはやこの時点で、そのボタンに割り当てられた三つの機能を区別できない。そういうボタンが何種類かあるのだ。とても憶えきれない。
 憶えきれない以前に、悔し涙が滲んで、ボタンに描かれた文字が見えない。
 私はこの社会に適応できない。その証拠をつきつけられた私は、すっかり諦めの境地に達し、その一方で激しい後悔に苛まれるのであった。
 わかっている。私が使いこなそうとしている機能は、特に必要があるわけではない。ほんの少しの操作を会得すれば、初期値のままで電話として充分に活用できることはわかっている。私達の脳がそうであるように、携帯電話だって使われる機能はほんの一部分である。
 しかし、すべてを熟知しなければならない性癖が邪魔をする。全ての機能を把握した上で自らの判断に基づいた取捨選択のふるいにかけないと、先へは進めない。そんな煩わしい性が、疎ましい。最後には、必要な操作はほんの少しという誰もと同じ結論に漂着するのだが、寄り道をすべて確認しないと、どうにも立ち行かないのであった。
 そうして、誰に電話をかけるつもりだったのかさえわからなくなってしまう。木枯しの中で、私は立ちつくす。街角に佇み、けして手にしてはならなかった携帯電話という名の異物を手にして、途方に暮れる。幼馴染みの違和感が、私を呪縛する。逆らえない。私は溜息をついて、公衆電話を探す。その前に立てば、誰に電話をするつもりだったのかを思い出せるのではないか。そんな儚い望みを傷心に抱えながら。
 結局、私は携帯電話を片手に公衆電話をかけ、通りすがりの女子高生に失笑されるのであった。

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159 98.02.02 「あんちゃんのルール」

 そのあんちゃんは、なにかが妙だった。
 どこがどう妙なのか指摘できない。しかし、なにかが妙なのであった。
 タンメンを啜りながら、私はそのあんちゃんを凝視した。私は、ラーメン屋「とんとん庵」の中で、そのあんちゃんに気づいたのである。角地に立地した店であり、私の席からは、交差点がよく見渡せる。交通量の少ない道路だが、警察には警察の事情があるらしく、信号機があり横断歩道がある。
 あんちゃんは、歩道に佇んでいた。歩行者用の赤信号が変わるのを待っているのであった。
 高校生のようである。これ見よがしに煙草をふかしているのが目立つが、妙というわけではない。野外での喫煙は、珍しい行為ではない。私もよくやる。もっとも、高校生がやるとちょっと珍しいかもしれない。しかし妙ではない。
 私は、茹ですぎ気味の麺を啜りながら、なおもあんちゃんを観察した。
 ベルトの位置を異様にずり下げシャツの裾をさらけ出しているが、高校生が制服を着くずすのもさしておかしな所業ではない。良識というものが多数決によって定められるものなら、あんちゃんの姿は確かに良識からすればだらしなかろう。とはいえ、こちらは人様のお姿をだらしないと言えた義理ではないし、そもそもあんちゃんの服装にはなにも妙なところはなかった。
 はて、なんだろう。なにかが妙なのだ。白菜を噛みしめながら、私は思い悩んだ。
 信号が変わった。あんちゃんが道路を渡り始めた。
 あっ。私はレンゲを取り落とした。わかった。やっとわかった。
 スープの中に埋没したレンゲを箸で救助しながら、私はようやく納得した。
 信号を守っているのが妙なのであった。レンゲの把手をおしぼりで拭いながら、私は自らの発見に感激した。そうだったのだ。あんちゃんは、律儀に信号のメッセージに従っているのである。
 あんちゃんばかりに気を取られていたが、そういえば赤信号など無視する歩行者ばかりであった。誰もが、左右を確認したうえで横断していく。車は滅多に通らない。むしろ、この状況下における信号無視は合理的な行動であるといえる。そんな中でひとりだけ交通法規を遵守しているからこそ、あんちゃんは妙なのであった。
 横断歩道を渡り切ったあんちゃんは、また赤信号が変わるのを待っている。対角の地に行きたいもののようだ。悠然とした態度で煙草をふかしている。先ほど、信号というものの存在を全く黙殺して斜めに道路を渡り、その地に辿り着いたおばちゃんがあったはずだが、彼女の姿はもう見えない。たとえば、あんちゃんは、あのおばちゃんの行動をどのように考えているのであろうか。苦々しく思っているのか、それとも他人のことはいっこうに気にならないのか。
 その態度から推し量るに、あんちゃんは世の中のルールというものにたいへんおおらかな姿勢で人生に臨んでいると思われる。あと数年の間は喫煙してはならないとか、服装はきちんとしなければならないとか、そうした発想とは無縁の世界で生きているようである。その彼が、なにゆえに信号を守るのか。
 また信号が変わり、あんちゃんは青信号に導かれて横断歩道を渡っていく。
 伸びつつある麺を啜り、私はなぜもっと堅めに茹でないのだろうとの不満を募らせる一方で、あんちゃんの歩んできた道を思った。
 幼少のみぎりに赤信号を無視したあげく交通事故に遭った体験が、今もトラウマとなって残っているのではないか。
 あるいは、父親が警察の交通課におり、かたく因果を含められているのではないか。交通違反でだけは捕まってくれるなよ、と。この春からは青少年防犯課に異動するから、そのときは煙草はやめてくれ、赤信号は無視してもかまわないから、と。
 もしくは、先祖に狼煙の専門家がいて、もはやDNAに信号を遵守する因子が組み込まれてしまった信号一族の末裔なのではないか。
 ふと気づくと、あんちゃんの姿はもう見えなくなっていた。
 あんちゃんがなにゆえに赤信号を守るのか、つまるところ部外者の私が口出しすることではないのだろう。スープを飲み干しながら、私はすこしばかり反省した。スープだけはうまいんだけどなこの店、と考える一方で、私は他人のことをあれこれ斟酌するのはやめよう、と決意していた。
 あんちゃんにはあんちゃんのルールがあるのだろう。私には何も言えない。
 私に言えるのは、「とんとん庵」は麺をもうすこし堅めに茹でてほしい、ただそれだけである。

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160 98.02.03 「教育とはなんだ」

 コンビニエンスストアの中を回遊していた私は、文具コーナーの前でふと立ち止まった。
 正確には、その問題の品の前を二歩ほど行き過ぎ、後戻りした。私の注意を惹いたその問題の品は、「教育おりがみ」なる代物であった。教育というものはこれに失敗すると「切れる」ということで昨今なにかと話題になっているが、こうしたささやかな品にも冠せられているのであった。実体はごくありきたりの折り紙セットである。教育の現場で使用される目的を想定して命名されたのであろう。教材としては、なんの工夫もない、いっそすがすがしいとさえいえる商品名である。
 しかしひとたびコンビニエンスストアにその活躍の場を求めるとなると、いささか事情は異なってくる。「教育おりがみ」である。その発祥から哀しい原罪を背負ったこの世間知らずがうかうかと世に出れば、自ずと鈍い異彩を放たずにはいられないのは自明の理である。「教育おりがみ」である。こんな世俗にまみれた雑踏に、いったい何をしにきたのか。コンビニエンスストアは汚濁のるつぼだ。繊細を切り捨てなければ生きていけない。今ならまだ引き返せる。君が本来いるべき場所へ帰ってはどうか。それは敗北ではない。俗塵の中でさえ誇りを失わなかった君の、栄えある帰郷だ。昂然として自己を見失わなかった君を、教材業界は喝采をもって迎えるはずだ。
 とはいえ、私が無言でなにを語りかけようとも、「教育おりがみ」はそこに存在しているのである。無言でそんなことを語りかけていたのかオレは、と、うろたえてしまうのは否定しがたい。
 「教育」である。それを言っちゃおしまいよ、という最終兵器である。その名のもとに様々なことが様々に行われてきた例のアレである。自らを無敵と錯覚している道化師である。こいつが前面に登場するといろいろと問題が起こるが、「教育おりがみ」の域にとどまっているのなら、まあ、目くじらをたてることもない。
 教育である。私はきびすを返し、おりがみ以上に「教育」が似合う商品があるか否かの検証作業にかかった。「教育かみそり」、笑えない。「教育ウーロン茶」、まずそうだ。「教育肉まん」、これはちょっと食ってみたい。「教育ロックアイス」、これはファンになりそうだ。「教育新聞」、こいつはどうにも魯鈍きわまりない。
 店内を不毛に徘徊し、私は再び文具コーナーの前に立ち戻った。殺人犯が現場に舞い戻る心境といえようか。こうした一連の不可解な行動を監視カメラはすべて記録しているだろうから、取手折り紙殺人事件などというものが勃発した暁には、真っ先に私が疑われることになるに違いない。折り紙つきの容疑者である。もちろん私は無実なので、万が一当局に身柄を確保された際には、本稿の存在を捜査本部に通報し「こんなまぬけな奴が人を殺せますか」と啖呵を切って頂ければ幸甚である。
 「教育おりがみ」というものが、どんどんわからなくなっていく。いっそ、折り紙とは人生だ、などと無茶を言えば楽になるだろうか。そのココロは、山あり谷ありです、とかなんとか。あ、いや、大喜利にうつつを抜かしている場合ではなかった。このままでは教育的指導を受けてしまう。
 つまるところ、教育とは失敗に掛かる枕詞なのかもしれない。だがそんなことは、カップ麺を買いにコンビニエンスストアを訪れた私には怖くて言えない。
 言っちゃったけど。

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