『雑文館』:97.05.13から97.07.23までの20本




101 97.05.13 「最下段のユーモア」

 新聞の第一面最下段には、癖のある書籍雑誌や怪しそうな通信教育の広告が並んでますね。そこだけ妙な雰囲気が漂ってる。一般紙では、そのすぐ上で立派なひとが立派そうに立派なことを述べているので、ますます断絶が目立ってる。もう、そこだけ別世界。きわめて限定された需要を求めてずらりと居並ぶ広告群が、不気味な存在感を漂わせて紙面の最下層でうごめいています。
 最近のお気に入りは、「ユーモア話術通信講座」ですね。馬鹿野郎なくらい、好きですね、この広告。たとえば10日付けの毎日新聞朝刊には載っているので、御覧下さい。あ~、その~、ゑ~と、どこが面白いのかと鼻白むこと請け合いです。いきなり拗ねますが、いいんだもんっ、オレは面白いんだっ。
 まず、この講座の存在自体があまりに異様です。歪んでます。いったい、話術の修得が通信教育で可能なものでしょうか。その立脚点がよくわかりません。しかしまあ、実際には藁をも把む思いで応募される方もいるのでしょう。「ついに役付になったのはいいけど、おれ口下手なんだよなあ。これからは人前で話す機会も増えるし、部下から仲人たのまれちゃうかもしんない。どうしよう、おろおろ。あ。この講座、受講してみようかな」おとうさんおとうさん、冷静になってください。本屋さんに行ってスピーチの本を買ったほうが安上がりですよ。
 この広告のメインコピーは、『「わっはっは」で行こう!』です。もう、脱力します。行けば~? と、つぶやきながら足早に立ち去りたい気分に陥らざるを得ません。見なかったことにしよう、と決意しながら、しかししげしげと凝視しちゃうのです。なんなのでしょう、この魔力は。
 なぜ、「わっはっはっ」ではないのでしょう。なぜ、「は」で止めるか。ぴたりと停止するか。そのへんがまず謎めいてあまりあるところです。どうも緻密な計算がありそうな気もしないではなくはないような、なんだかよくわかりませんが、いつのまにか誘蛾灯に引き寄せられる夏の虫と化してしまうわけです。ユーモア話術通信講座の深遠な世界には、圧倒されることしきりです。
 ボディコピーは6フレーズ。「人前で話すのが苦にならない!」求められていることを最初にもってくるあたりは常道を踏まえてます。「人にウケるスピーチができる!」具体的にはどうだと言ってるわけです。「性格が明るく積極的になる!」このへんから雲行きが怪しくなっていきます。「人間関係がスムーズになる!」「会議などで打ちとけた話ができる!」「初対面でもスグに話せる!」どうも、話術という技術を伝授するのではなくて、性格改造講座のようです。どうでもいいけど、「!」の連発って、効果ないんじゃないかな。まあ、「スムーズ」だもんなあ。誤植なのかな。
 とはいっても、こういう講座を受けているという事実が人に自信をつけるのだから、内容はどうでもいいんでしょう。たぶん教えることはひとつしかないなんでしょう。事実、ひとつしかありえないし。それに、本屋で千円の本を買うより五万円の受講料を払うほうが、効き目がある気もする。五万円を支払ったら効果なきゃね。ま、受講料がいくらだか私は知りませんが。
 それにつけてもユーモアです。死語じゃなかったんだなあ。まだユーモアが大手を振って歩いていたとは知りませんでした。ユーモアだけは口にしたくないよなあ。冗談はいっぱい言いたいけど、ユーモアはやだなあ。私、シゴト的局面においてついうっかり「気のきいた」表現を口の端にのぼせてしまい、内心で屈辱にまみれることがよくあります。無意味な冗談ばっかり言って暮らしたいけど、シゴト方面でそれをやるといろいろとめんどくさいことが増えちゃうしなあ。
 寡黙にならざるをえません。
 私は、この広告製作に携わった男の人生を思います。幼い頃は暗くなるまでボールを追いかけていたかもしれません。失恋を繰り返した十代を過ごしたかも知れません。当時の彼は、将来、「っ」を添えるかどうかで悩むなどとは思いもしなかったでしょう。「ここには「っ」を添えた方がいいと思うのですが。それに、「!」を多用しすぎかと」「いいんだいいんだ。このままでかまわん。カネを払っているのはこっちだ」。彼は社に戻って上司に報告します。「なに、クライアントがそう言ってる? じゃあ、そのままにしておけ。なあに、はした金しかもらってないんだ。適当につくっとけ」「はあ」「それより、木村の奴がヘマやらかした。むこうさん、カンカンだ。明日の朝いちばんでつっこむぞ。おまえも手伝え。今夜は残業だ」「はあ」。そして、数日後、新聞を手にした彼は自らが製作した不本意な広告を発見し、力なく首を振ることになるわけです。
 こうして人は寡黙になり、いつしかユーモアすらも口にできなくなってしまうのです。
 って、強引な結論だなあ。

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102 97.05.14 「自殺点の他殺」

 自殺者が出ると「人間、死んだらおしまいだ」と、ヒハンを滲ませて声高に言うひとは不思議だなあ。自殺したひとは、なにもかもおしまいにしたいから自殺したのになあ。本人にとってはその選択しかなかったんだから、自由にさせてあげればいいのに。
 それにつけても、自殺点が消えてなくなっちゃたのは、つくづく惜しまれる。Jリーグの運営は、サッカー観戦にはまったく不向きの国立競技場を未だに使用することを始めとして失策ばかりなんだけど、最大の失敗は自殺点という呼称の廃止だよなあ。あれだけはこの列島のサッカー独自の美点だったのに。オウン・ゴールだって。おうん。私は、悲しい。
 先のワールドカップでコロンビアのエスコバルは自殺点をやらかしたばかりに他殺されたわけだけども、あれだって、オウン・ゴールだ。大陸の人々がジサツテンと言っていたわけじゃない。
 なんとか復活できないもんかなあ。呼び方を変えたってなんの解決にもならない、というありきたりの反論は持ってるけど、そんなこと言ってもしょうがないしなあ。
 スポーツ新聞から姿を消して久しい自殺点、今ごろどこでなにをしているのか。私は毎日その帰りを渋谷駅で待っておるというのに。
 記者諸氏は使いたかろう。これほど紙面に映える単語は珍しい。デスクの引き出しには、ボツのやむなきに至った魅力的なフレーズがいっぱい埋もれているに違いないのだ。いつの日か風向きが変わって出番が訪れる日を待っているのだ。ええ、そうに決まっていますとも。しかし、ひとたび使おうものなら、穏やかながらもあからさまな取材拒否にあってしまうから使えない。確信はないが、多分そうだ。
 その呼び名がいかんという見解はわからなくはない。まっとうな御意見です。
 が、サッカー関係者は当然のことながらサッカー界のことしか見ていないらしく、自殺点という言葉が言語に与えた照射を理解していないみたいで、そのへんが歯痒い。ただ「点」をつけただけで、「自殺」が再生したっていうのになあ。なぜその功績を自ら葬るか。もったいないなあ。
 もうすこし頑張れば普通名詞になれたのに。
 たとえば野球界からは「直球」「遊撃手」「続投」などが普通名詞に昇進していき、「自打球」「代打」などが次の出番を待っている。「自殺点」は、この列島のサッカーを普遍化させる象徴になれたはずなのになあ。
 国際的な競技だからといって、いきなりヨコモジにしなくても。ま、前々からしたかったんだろうけど。
 たとえば自殺点が駄目なら自爆点はどうか。これも不謹慎なのか。
 では、自虐点ではどうか。これでもまだ不謹慎と言うか。
 いや、やっぱり不謹慎か。別の意味で。てへへ。でも、いいと思うんだけどな、自虐点。どうかな? どうせ、自殺点は死んでしまったんだし。

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103 97.05.16 「ワクワクプレゼント」

 昨日5月15日は沖縄が返還されて25周年を迎えた日だったのだが、キリンワクワクプレゼントの締め切り日でもあったことは、あまり知られていないが事実である。
 この企画は麒麟麦酒株式会社が今春の販売促進活動の一環として実施したもので、少なくともここに一名、その戦略に乗せられた者がいた。
 この男は専用の応募葉書を入手し、「一本呑んでは馬鹿のため」と呟きながら応募シールを貼り付けていたのである。男が所望していたのは電子クーラーボックスで、1件の応募には12本の缶ビールを呑まなければならない。いや、応募シールは缶の外側に貼付されているので、購入しさえすれば別に呑み干す必要はない。だが、男はマロリー卿の血を引いているせいか、そこにビールがあれば呑むという特質を有しているため、結局のところはすべてを空缶へと変貌せしめるのであった。
 2枚の応募葉書の桝がすべてシールに埋め尽くされたのは、男が1箱のキリンラガービールを購入してから十日程の後であった。しかし、男はすぐさまポストへは赴かなかった。男はこれまでの半生において幾多の大ボケをかましてきたが、やはりまたやってしまったのである。
「きーっ」
 本日、そろそろ投函しようかと葉書を手にとった男は、逆上した。
「ばばばばかものっ。締切日は昨日ではないかっ」
 24本の缶ビールは無駄になってしまったのである。二十四までを呑み干しや。
「んがーっ」
 男は、葉書をくしゃくしゃに丸め、ごみ箱に叩き込んだ。
 今回の失敗はわかりやすい。大概のひとはこの手の失態をやらかしている。まだ時間があるだろうとほっぽっておいたら、いつのまにかその時が過ぎていて悔やむことになる。どこにでもころがっている話だ。男もさほど深刻には考えない。
「ま、いいか。どうせ当たるわけないし、どうせビールは呑まなきゃならなかったんだし」
 前者の理由はわかるが、後者のそれは謎である。
 立ち直るのが早いのでも諦めが早いのでもない。なにかしら、ものの考え方が独特であるように思われる。それは、男の次なる行動によって判明する。
「これ、ネタになるな」
 男がごみ箱からくしゃくしゃに丸めた応募葉書を取り出したこともまた、あまり知られていないが事実である。

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104 97.05.19 「違いのわからない男」

 曲違い、とは、こりゃまた、かなり失礼な話ではないか。
 そりゃなかろう、と思う。ラジオのリクエスト番組で時々耳にする。「中野区の山本さんからのリクエストで、美空ひばりの“川の流れのように”。浦和市の田中さんからも同じ曲のリクエストがありました。曲違いですが、茨城県取手市の官兵衛さんからも頂いています」なんて感じで使われる。
 いかんのではないか。官兵衛さんは“お祭りマンボ”を聴きたかったのだっ。川の流れなどどうでもよいのだ。そこんとこ、どうなっておるのか。美空ひばりの“お祭りマンボ”でなくても我慢する。trfの“お祭りマンボ”でもかまわない。岡本真夜でも許そう。人違いだったらまだ救われるが、曲違いは許されない。
 官兵衛さんは、ただただ“お祭りマンボ”を聴きたくて聴きたくて、恥を忍んでリクエストのやむなきに至ったのだ。リクエストをするまでに彼の胸の内に生じた様々な葛藤を、「曲違い」の一言でばっさりと切り捨て、あまつさえ川に流してしまうとはなんたる所業であろうか。
 官兵衛さんは、先祖代々伝わる「リクエストは是を固く禁ず」との家訓をあえて犯してしまうほどの熱情を抑えきれず、心を引き裂かれるような思いで葉書をしたためたかもしれない。「それだけはやめてくれ」と泣き叫ぶ妻子の声を断腸の思いで振り切って、心を鬼にしてポストに投函したかもしれない。
 彼の心情はどうなってしまうのか。
 付け足しのように名前を読み上げられ、しかもなお彼の望みは叶わない。
 リクエストが叶えられないなら、なぜそっとしておいてくれないか。恥を忍んだはずの彼の恥は曝された。純粋に、真摯に、官兵衛さんは“お祭りマンボ”を聴きたかっただけなのだ。彼の純真は踏みにじられた。曲違いの烙印を押された彼の今後を、ラジオ局は面倒みてくれるとでもいうのか。
 段違いに場違いな曲をリクエストする官兵衛さんがいけないのかもしれないが、服を買いに行けば、色違いですけど、と言って別のものを勧めてくれるだろう。そんな優しさが、なぜないか。
 局違いですが、ニッポン放送でオンエアされました。せめてこの程度の軽いギャグは言ってくれてもいいだろう、たとえば文化放送。官兵衛さんは根が単純だから、それだけですぐに機嫌が直るのだ。そんな思いやりが、なぜないか。
 官兵衛さんは、間違いや思い違いを多発する。しかし、そんな彼にも矜持はあるかもしれない。曲違いだけはしてはならなかった。彼は傷ついた。
 彼にとって“お祭りマンボ”は、大切な曲なのだ。心に残る曲なのだ。初めてデイトをしたときの思い出の曲なのだ。
 思えば、その頃から勘違いの連続であった。

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105 97.05.24 「ポケットいっぱいの秘密」

 いっそ死んだ方がマシ、と、自殺を考えているみなさん、こんにちは。手首を切るその前に、私の話を聞いてください。ゑ? 首吊りですか。これはまた失礼しました。首を吊るその前に、私の話を聞いてください。なあに、どうせ死ぬんだから、ちょっとくらい、いいじゃないですか。
 あなたは、ポケットティッシュにいったい何枚のテッシュが入っているか考えたことがありますか。ありませんか。そうですか。では、私と一緒に考えてみませんか。私が思うにはですね、12枚ではないでしょうか。10枚という線は捨て難いと思いますが、12枚がやはり美しいのではないでしょうか。
 では、さっそく調べてみましょう。部屋中を引っ掻き回したところ、4つの未使用ポケットティッシュが発掘されました。いやあ、どこにでもころがっているもんですね、ポケットティッシュ。
 まず最初のポケットティッシュは、ポケットティッシュ界の王道を往く貸金業界からの登場です。しかも、大物です。なんと、ユニマットです。可愛かずみさんが微笑んでいます。あ、あなたの先輩ですね。プレミアムがつくかもしれませんが、平気で開封してみましょう。これは意外な結果でした。7枚です。7枚しか入っていませんでした。7枚というのはいったいどういう意味があるのでしょう。幸運のポケットティッシュという謎掛けなのでしょうか。気になるところです。
 幸い、貸金業界からはもう1社のエントリーがありました。検証してみましょう。アルコという馴染みのない会社のものです。無人契約機「ハローくん」というものを導入している模様です。このインパクトのない名前に凄みを感じますが、それはともかく開封しましょう。おや、8枚です。新記録です。新記録が出ました。いやあ、世の中わからないもんですね。私はびっくりしました。ゑ? びっくりしない? どうも、感動のないひとだなあ。
 さて、一方、理容業界はどうでしょうか。理容組合というもののポケットティッシュがあります。これは私が利用している川上という床屋さんで取得したものです。は? そんなことはどうでもいい? そりゃそうですね。開封します。これもまた8枚でした。タイ記録です。
 最後は、朝日生命のものです。新記録の予感があります。今までのものより、ちょっと厚いようです。包装にカネがかかっていて、一味違います。ところで、生命保険、入ってますか。あ、いやいや、つまらないことを訊いてしまいました。気にしないでください。開封しましょう。出ました。新記録です。10枚です。大台に乗りました。いやあ、さすが、保険屋さんは違いますね。いやあ、まいったまいった。
 ゑ? そんなことをして愉しいかって? なにを言ってるんですか。愉しいわけないじゃありませんか。使わないティッシュをただ出したって。ちょっと探求心が湧いただけですよ。やだなあ、もう。
 しかしまあ、意外に少ないもんですね。もっといっぱい入ってるもんだと思ってましたよ。ちょっと期待はずれだなあ。
 で、この33枚のティッシュですが、どうしましょうか。冥土の土産に、いかがですか。あ、必要ない。そうですか。残念です。
 いやいや、お急ぎのところ引き留めちゃってごめんなさい。
 じゃ、さよなら。

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106 97.05.27 「1500円也」

 私はその瞬間、我が耳を疑った。
 ゑ? ゑ? それって、間違いじゃないの? ねえねえ、レジのおねえさん。オレ、そんなにたくさん買物してないよ。
 自分が予想していたより千円くらい違う。二千円程度というのが私の心積もりであった。しかしおねえさんは、三千なにがしの金銭を私に要求するのであった。私の呆け顔を目にして不安になったのか、おねえさんはもう一度物品を確認し、今度は自信をもって三千なにがしと告げるのであった。POSシステムなのだ、バーコードなのだ、私は間違ってなんかいないのだ、とでも言いたげな表情だ。
 私は呆然としたまま、金銭を支払った。私は呆然としたまま、買い物かごを台の上に置いた。私は呆然としたまま、レシートを見つめた。私は呆然としたまま、数字を目で追った。
 枝豆なのであった。原因は、枝豆にあった。なんと、1500円の枝豆なのであった。一束が1500円もするのであった。
 たしかに野菜売り場において、私は値段など確認せずに枝豆の束をかごにほおりこんだ。私が悪い。しかし1500円はないだろう。それはちょっとアコギすぎやしまいか。そりゃ、ハシリの枝豆だから高価だろう。私は今年はじめて目にしましたよ、枝付の枝豆は。うわ~~いっ、と内心で快哉を叫んで、いそいそ購入の儀に及びましたよ。もう一束買っちゃおうかなっ、なんて悩んだりもしましたよ。値段も確認しないで。ああ、そうです、私が馬鹿でした。しかしだね、東急ストアよ、1500円はないんじゃないか。君の良心は、いささかも疼かないか。故郷の両親が今の君を見たら、どう思うだろう。どうだろう、君はまだ若いんだ、もう一度やりなおしてみないか。
 枝豆ったらあなた、一束380円である。盛夏には露地物が280円である。そんなもんである。枝からちぎりとられて一袋単位で売っているのもあるが、私にもわずかばかりの矜持はあるので、そんなものの値段は知らない。流通過程ではまた別の単位も使われようが、流通の末端における枝豆は束という単位に基づいて売買されなければならない。したがって、枝豆は一束380円で売られるべきなのだ。1500円で売ると、あんた言うけど、そんなことさえ、わからんようになったんか。
 とはいっても、買ってしまったものは仕方がないのである。悔しいので、枝からちぎりながら房の数を数えましたよ私は。147房、あった。一房、10円だ。私はひっくりかえった。ハシリのせいか、房の充実度は不足しており、一房に内抱された豆は平均すると2粒程度。一粒、5円だ。私はでんぐりかえった。いやはや、とんでもない枝豆だな。
 そのようなわけで、茹で上がった枝豆と、よく冷えたビールが私の目の前にある。古来、画家は数多く輩出したが、なぜこの素晴らしい光景を誰も描かないのか。不思議である。これほど心を奪われる光景が、いったいこの世に存在するだろうか。おそらく、すべての画家は己の才能では活写できないことを痛感し、この題材を避けてきたのであろう。などと、わけのわからないことをつぶやきながら、ぐびぐびする私なのであった。
 それにつけても東急ストアよ、やられたよ君には。
 1500円だとわかっていてもきっと買ったからな、私というものは。

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107 97.05.31 「出さない恋文」

 勘太郎とは私の甥に過ぎない。小学6年生に過ぎない。泣き虫に過ぎない。
 こやつが最近、学習に目覚めるというとんでもない事態を迎えている。
「べんきょう、教えてよお」
 私の部屋に国語の問題集というものを持ち込むのであった。さすがに私の能力を察しているらしく、理科や算数などは持ち込まない。
 私は、不愉快である。なぜ、国語か。私は社会もなかなかのものなのだが。まあ、よい。こたびは、国語のなんたるかをこき知らしめてやろうではないか。
「勘太郎はさ、なぜ国語というか考えたことがあるか。なぜ日本語といわないのか、そういうことを考えたことがあるか?」
「ないよ」
 即座に首を振りやがった。ぜんぜんモノゴトを考察しようとしない。こやつが学習に向かないのは明白である。私は、暗澹たる前途にやりきれなさを覚えた。
「じゃあ、いま、考えてみろよ」
「え~~。なんで~~。そんなのどうでもいいじゃないかっ」
 勘太郎は、たいへん不服そうである。
「だめだめ。そういう基本を押さえておかねば、なにも身につかんぞ」そんなわけはないが。「ともかく考えろ。日本語と国語は、どう違うと思う?」
 勘太郎は、不承不承考え始めた。
 やがて、言った。「ん~とね、日本語は使ってることばで、国語は学校で教わることば」
「なるほど、そう見たか」
「合ってる?」
 おいおい。「合ってるもなにも、正しい答なんかないぞ。違っているのがわかっていれば、それでいいんだ」
「?」
 勘太郎は、理解できないようであった。
 まあ、よい。次は、動機を検証しておこう。
 なぜ、いきなり向学心に目覚めたか。私は勘太郎を問い詰めた。なかなか口を割らなかったが、そこはこちらにもネンリンというものがある。手練手管を駆使して、吐かせた。首筋まで真っ赤にしながら、勘太郎は小声で白状した。
「一学期の成績があやかちゃんより良かったら、あやかちゃんがキスしてくれるの」
 はああ、勘太郎よ、そのような背景があったか。ならば、喜んで協力しよう。
 それにしても、かっこよさでもなくサッカーのうまさでもなく、学習の結果としての一局面に重きを置くあやかちゃんとは、これはちょっとヤな女ではないか。オレはヤだな。もう、ヤ。まあ、私がキスされるわけではないのでどうでもよいが。
「じゃあ、とりあえず、漢字のテストをしよう」
「え~~、漢字はにがてだよう」
 なにを言ってるんだ、こいつ。「おまえさ、教わりにきたんじゃないの?」
「そうだよ」
 ちっとも悪びれていない。私は頭を抱えた。
「あのさあ。え~と、まあいいや。とにかく漢字のテストだ。あやかちゃんのフルネームを漢字で書け」
「書けないよ」
 きっぱりと言いやがった。
 私は愕然とした。「おまえ、好きな女の子の名前も書けないの?」
「だって、むずかしいんだもん」
「呆れたなもんだな」
「ゑ? なんで? ほんとにむずかしい字だよ。まだ習ってない漢字なんだよ」
 勘太郎は、不思議そうだ。
 私は微かな怒りを覚えた。「まだ習ってない漢字は書けなくていいのか?」
「そうだよ」
 そうじゃないだろっ、つうの。
「勘太郎さあ、学校の授業よりあやかちゃんのほうが気になるだろう」
「うん」
「あやかちゃんのことはなんでも知りたいと思うだろう」
「うん」
「だったら、あやかちゃんの名前も漢字で書けなきゃ」
「どうして?」
「……」
 私は、徒労感に襲われた。五秒間ほどムナシサと戦い、打ち勝った。私は気を取り直し、方向転換した。
「わかったわかった。漢字はやめよう。作文にしよう。あやかちゃんへのラブレターを書け。添削してやる」
「そんなの、恥しいよう」
「いや、なにも、その手紙をあやかちゃんに見せるわけじゃないんだ。ラブレターは作文の基本だ。勘太郎は、学校で作文を書かされることがあるだろ?」
「ある」
「そのときのテーマは、書きたいと思うようなもんじゃなかっただろ?」
「うん」
「だけど、なにか書かなきゃならない。と、したら、だ。あやかちゃんに自分がどれだけあやかちゃんのことを好きかを伝えるのが、いちばん書きやすいんじゃないか」
 勘太郎は、考え込んだ。しばらくして、「書いてみる」と、言った。
 書き始めた。
 暇になった私は、勘太郎が持ち込んだ問題集をぱらぱらとめくった。相変わらず、国語の問題集は間が抜けていて楽しい。
 ところで、私は、他者の著作権を侵害して訴えられたら、即座に己の非を認め諸法令の定めるところにより当局の処罰に服する用意がある。
前へ!
前へ!
ただまっしぐらに
前へ!
きみの前にはゴールがまつ、
きみのうしろにはスピードが残る。
単調な手足のくり返しがきざむ
栄光へのリズム。
きみがきみとたたかう
この長い道程--
 ずいぶん下手くそな詩である。いいのかなあ、多感な連中にこんなの読ませて。「栄光」だって。ヤだなあ。感性が鈍るんじゃないのか。詩を書く悦びを封殺しようとする意図があるとしか思えない。ま~、詩を書く人々はコッカにとっては不要だから、そのつもりなのかもしれないけど。
 設問が笑える。『「きみがきみとたたかう」の、あとの「きみ」は、何を表していますか』というのだが、選択肢が謎だ。「病気」「弱さ」「相手」の三つから選べったって、このなかにはないんじゃないの。たぶん「弱さ」を選ばせようというのだろうが、単に「自分」で充分じゃないのか。少なくとも私には、「弱さ」までは読み取れない。
 勘太郎はすでに「弱さ」と回答している。たしかに、あえて選ぶならそれしかなかろう。しかし、この詩に「きみ」が「弱い」人物であると暗示させる記述があったか。だいたい、何を読み取ろうが、読んだ奴の勝手だろう。
 とはいっても、模範解答によると「弱さ」なのであった。
 なんだろう。ひとはすべからく弱いものだと教えたいのであろうか。そんなこと、国語の授業中には教えられたくはないよなあ。シャカイに放り出されれば、いずれ実感するんだから。実感しないと、ひとは学習しないぞ、ふつう。
 『走るときの動作を、作者はどう表現していますか』という設問もある。すでに書き込まれた勘太郎の答は「ことばで表現している」だ。もっともである。なんの間違いもない。私もそう答えるだろう。まあ、「きわめて独善的な描写で表現している」くらいの答はするだろうが。
 しかし、模範解答はそうではないのであった。「単調な手足のくり返し」が正解なのである。私は呆然とした。その回答を引き出したければ、「どう表現して」ではなく、「どんな言葉で」と問いかけるべきではないのか。
 むちゃくちゃな問題集である。私は、ごみ箱に捨てた。
 びっくりしたのか、勘太郎が顔を上げて瞳をぱちくりさせている。
「この問題集は、洗脳を目的としているようだから」
 私は、なんの根拠もないいがかりを弱々しく申し述べた。
 しかし勘太郎は、この件について考察することなく、すぐに恋文の執筆に戻った。熱中している。やはり、伝いたい思いのたけはあった模様だ。
 やがて勘太郎は、恋文を書き上げた。
ほんとにキスしてくれる?
僕は勉強してるよ。いっしょうけんめい、勉強してるよ。
こないだ、そうじ当番のときは、困ったよ。
僕は外から窓をふいてた。
あやかちゃんがあとから来て、内がわからふくんだもの。
困っちゃったよ。
あやかちゃんの右がわの目の下に、小さなきずがあった。
気になってしょうがなかった。
どうしたのって、ききたかったけど、きけなかった。
どきどきした。
へんな気持になった。
がんばって勉強するよ。キスしてもらうんだ。
 やっぱり、恋するひとは、いいものを書くな。「前へ!」などと連呼する愚鈍な詩とは大違いだ。
 出さないことがわかっている恋文ほど、素直に書けるものはないもんなあ。
「これ、ほんとにあやかちゃんに出してみないか?」
 私が提案すると、勘太郎はぐにゃぐにゃになった。
「だだっだっ、だめだよう。だめだめっ。だめだようっ」
 勘太郎は顔面を紅潮させて、私から恋文をひったくり、びりびりに引き裂くのであった。

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108 97.06.05 「ツチノコ秘話」

「ツチノコはすでに捕獲されておるのではなかろうか。何度か捕獲され、そのたびにその事実は隠匿されてきたのではないか。闇から闇へと葬り去られてきたのではなかろうか。俺はそう睨んでいる」
 睨むのは勝手だが、語尾に力を込めながら私を射すくめるのはやめてほしい。
 森崎某は私の友人としてつとに有名だが、この男の発想、論理、見解といったものは、常に世間とは一線を画す。
「ツチノコは、木の葉のことは違って、目撃談だけでその存在が構成される、奇妙な奴ばらである。いるかもしれないし、いないかもしれない。基本的にはどっちでもかまわない」
 森崎某は熱弁をふるうのであった。
 私は黙って聴いている。いきなりなにを言いだすのであろうか。一瞬前まで、バーボンの水割りは唾棄すべきものか否かという話題に打ち興じていたのである。なぜに、いきなりツチノコか。いかなる背景をもって、ツチノコが登場するのか。
「ところが、ツチノコに利権がからむと、いてもいなくてもいいとばかりも言ってられなくなる。いてもいなくても困る、と考える人々がいるわけだ。たとえば、世の中にはツチノコを使って村おこしを企てる自治体がある。これは意外な数をかぞえる。村議会にツチノコという単語が飛び交うのだ」
「ツチノコ保護要綱とかツチノコの里建設予算案を審議したりするのか」
「そうだ。親類縁者を総動員して当選のアカツキを迎えた村会議員さん達が、ツチノコについて真剣に語り合うのだ。議場を席巻するツチノコ。死ぬまでに一度は傍聴してみたいものだ」
 みたくないなあ、オレ。
「ツチノコで村おこし、というふざけたコンセプトを実現させた人々はつくづく偉い。詐欺師だ。存在するかどうかわからないものを象徴にして、けっこうな額の税金や補助金が注ぎ込まれるのだ。すごいぞ」
 すごいかなあ。
「ツチノコの存在が確認されたら即座に破綻するという綱渡りだ。その不存在が立証されても困るが、その存在が立証されても困ってしまうのだ。ツチノコが存在したとしよう。村おこしの目玉なんだから、いることがわかった以上、生け捕りしなければならぬ。捕獲して見せ物にせねばならぬ。捕獲した。しかし、なにを食うのかわかったものではない。すぐに死ぬ。関係者の脳裏に、WWF、環境保護団体などといった単語が飛び交う。こりゃ隠すほかなかっぺや、といった展開になる。なかったことにしよう、というやつだ」
 無駄な想像力である。
「とはいえ、情報はどこからともなく洩れるものである。村内に噂が立つ。だが、関係者は徹底して認めないのだ。躍起になって否定するのだ。彼等はこう言うだろう」
 森崎某は、にたりと笑って、一呼吸おいた。どうやら、結論のようである。
「ツチノコに限って……」
 私は脱力した。つまり、ただこの駄洒落を言いたいがために、強引にツチノコを話題にしたもののようであった。
 私がウケなかったもので、森崎某は途端に不機嫌になった。
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109 97.06.06 「大袈裟しばり」

 気の置けない、というと正反対の二通りの意味があることになっていて、ややこしいったらありゃしないのだが、この場合は本来の意味の「気を許せる」のほうだ。気の置けない連中と居酒屋で飲酒に及んでいたのである。
 その場の成り行きに過ぎないのだが、大袈裟しばりが入った。
 すべての言動は大袈裟に表現しなければならなくなったのである。我々が呑んで馬鹿話をしていると、時々こういう「しばり」が入る。物真似をしながら喋らないとダメとか、発言の中には必ず動物の名前を入れなきゃダメとか、そういうことをして遊んでいる。頭脳をぶんぶん回転させなきゃ会話が成立しない。たいへん疲れる。まあ、ストレス解消のために飲酒しているわけじゃないから、疲れたって別に構わないのである。草野球と同じで、疲れても愉しければそれでいい。我々は、飲酒と面白話が好きな集団に過ぎない。
 大袈裟しばりというのは新機軸で、即座に「じゃ、今からやろうっ」と、採用の運びとなった。
 最初の犠牲者は、そこへたまたまモロキューを運んできた、店員であるところのおばちゃんであった。
「おおっ、モロキューではないかっ。これが巷で噂される日本一のモロキューだなっ。このキュウリの見事に屹立したイボイボを見よ。この生きの良さこそが、モロキューの身上だ。露地物ならではの崇高な食感を吟味しようではないか」
「ばかねあんたたち。ハウス物に決まってんじゃないよ。露地物なんてまだ出回ってないわよ」と、おばちゃん。
 だが、我々はめげないのだ。
「しかるに、この金山寺味噌である。有史以来、かくもキュウリの真髄を引き出し得た調味料があったであろうか。この絶妙な出会いをいざなった天の配剤に、いま私はあらん限りの感謝を捧げたいと思う」
 おばちゃんは気味悪がって行ってしまった。我々はひとしきりげらげら笑う。馬鹿集団は止まらない。
 この焼き鳥はうまい、と言うだけでも一苦労だ。
「この焼き鳥であるが、私は本日うまれて初めて真の焼き鳥に出会ったとの感慨にむせび泣いている次第である。私のこれまでの人生はいったいなんであったか。この焼き鳥との邂逅は、私に妙なる福音をもたらしたといっても過言ではないとさえ誇りをもって断言できるのではないかと言うに事欠いて思い知るべきであろう」
 なにを言っているのかわからなくなってしまったりするのだ。
 讚美も大袈裟ならば、罵倒も大袈裟だ。
「このたびのシラスオロシであるが、この大根おろしはどうなっておるのか。こうした粗いおろし方が許されていいものであろうか。かかる不見識を看過してよいのか。我々は断固として、この狼藉に抗議すべきではないか。立ち上がろうではないか、諸君っ」
「おうっ」
 全員が立ち上がるもんだから、店長がぴゅうっと飛んでくる。
 冗談ですから冗談。慌てて釈明して、丁重にお引き取り願う。
 我々の冗談は世間に誤解しか呼び起こさない。
 世間様に御迷惑をお掛けするのは本意ではないので、我々だけの間で閉じる大袈裟にしばりを絞った。
「そのような悲壮な形相で、いったいどこへ行くのか」
「トイレである。長い航海になるやもしれぬ。みんな、俺がいない間も達者でいてくれよな。南十字星の下から祈っているぞ」
「無事に帰ってくるんだぞ。いつまでも待っているからな」
 ひし、と手を握り合ったりするのである。馬鹿である。
 こういうことをやっているとそのうちに周囲の好奇を煽るものらしく、たいてい酔っ払ったひとが乱入してくる。この集団の中ではなにをやっても許されるという先入観を抱いてやって来るので、ちょいと困る。
 こたびも、ネクタイを思いっ切りゆるめたおじさんが暴言を吐きながら、おれの仲間だってな感じで我々の席を訪れた。こういった場合の対処法は確立されていて、にこにこ笑いながら、いきなり難しい話を始める。我々にもまったくわかってはいないのだが、不確定性原理とかフェルマーの定理とかミンコウスキー空間といった単語を並べまくる。我々にはそれらの言葉の意味はさっぱりわからない。わかってるふりをして会話を進める。
 たいがい、おじさんはさあっと逃げてしまうのだ。第二義的に気の置けないひとを追っ払うにはこれが一番。
 あのですねおじさん。我々はいっぱい酒を呑んでいますが、さして酔っ払ってはいないのですよ。ほんとに酔っ払ったらこういう頭脳が疲れまくる遊びはできません。酔っ払う前にやっておるのです。
 我々が酔っ払ったらですね、以下略。

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110 97.06.13 「冒険」

 気になる二人なのであった。
 自転車に二人乗りをしているのであった。マシンは、いわゆるママチャリである。ママチャリではあるが、ドライバーは男性でありナビゲーターもまた男性なのであった。
 初老といえよう。両者ともである。二人の相似は他にも、スーツ姿、白髪といった外見に認められるのであった。
 二人は、駅の傍の市営駐輪場から、ゆっくりと漕ぎ出してきた。おぼつかないハンドルさばきである。
 私は思わず立ち止まり、二人を凝視した。
 日付も変わろうかという時刻である。飲酒果てた後、といった風情が漂う二人連れは、しごくのんびりと自転車をくゆらせていくのであった。
 どうにもちぐはぐで、強烈な違和感を発散してはいるものの、それを具体的に指摘できない。そうしたものを時々目撃してきたように思うが、夜中にママチャリの荷台にちんまりとまたがって揺られていく初老の会社員、というのも相当なものである。しかも、運転するのが似たような年格好の人物である。
 私は、見惚れた。
 どのような関係の二人なのであろうか。
 思うに、帰宅途上の電車内でたまたま遭遇した御近所さん、ではないか。まるっきり根拠はないが、そんな気がする。
「お。鈴木さんではありませんか」
「やや、田中さん。これはまた、奇遇な。残業ですか」
「いやいや、課内の飲み会でしてね。鈴木さんは」
「まあ、似たようなもんです。ちょっと接待で」
 そのような会話が、23時12分に上野駅11番線ホームを出た常磐線快速電車の車内で繰り広げられたのではなかろうか。
「お孫さんがお産まれになったそうで」
「ええ、まあ。田中さんの娘さんは、まだ」
「そうなんですよ。30にもなるってのに、結婚する気がないみたいで」
「そうですか。まあ、こればかりはなかなかねえ」
 といった家内人事に関する話題も語られたのではないか。
「この夏の盆踊りですけどね」
「どうですか、例の場所を借りられましたか」
「いやそれが、代替りした地主さんが、先代ほど物分かりのよい方ではなくて」
「ははあ、そうですか。役員さんも気苦労が絶えませんなあ」
 というような町内会的話題も飛び交ったように思われる。
 いや、根拠はまるでないのだが、なんだかそんな気がしてならない。
「どうですか。私の車に乗っていきませんか」
「え。鈴木さん、自転車ではなかったですか」
「そうです。二人乗りですよ」
「二人乗り、ですか」
「二人乗りです。オツなもんですよ」
「ふうむ」
「いいでしょう。たまには」
 そうした経緯だったのではなかろうか。しつこいようだが、根拠はない。
 路肩にたたずむ私の前を、二人はスローモーションのように通り過ぎていった。
 私はその瞬間、二人のぼそぼそした会話の断片を耳にしたのであった。
「だいじょうぶですか。登り坂ですよ」
「なあに、これしき」
「坂道は大変ですね」
「大変ですが、登るしかありません」
「そうですねえ」
 二人は、ゆっくりと遠去かっていった。
 そのあと、どんな会話を続けたのだろう。もう、私の耳には届かない。寡黙になって家路を辿ったのかもしれないし、そうではなかったかもしれない。
 気になる二人なのであった。

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111 97.06.18 「洗濯機の藻屑」

 全自動とは名ばかりなのであった。はばかりながら、名ばかりだ。世間をたばかりまくっておるのであった。
 許せぬ。
 全自動洗濯機と名乗って、恥じない。鉄面皮とはあやつのことだ。たしかに洗濯機ではあろう。この点は、私も同感である。私はあやつを使って洗濯を励行している。それは否定しえない事実である。
 いま私達が深く沈思せねばならないのは、全自動の部分である。
 洗濯機における全自動とはなにを意味するのか。家電メーカーと使用者との断絶は、特に言語表現において顕著であり、この溝はけして埋められるものではない。それはわかっている。両者に共通した認識で使用される言葉が、ほとんどない。それはわかっておるのだ。
 わかっているのだが、全自動である。なぜ全自動と名乗るか。おこがましいと思わないのか。全て自動なのか。全て自ずから動かすのか。全く自ら動くのか。どうなっておるのだ。
 なにも、洗濯物をほおりこんだり取り出したりする手間までを委ねたい、と申し述べておるのではない。あまつさえ、干してくれとまで理不尽な要求をしているわけではない。私もそこまで狭量ではない。
 だが、使用者が洗剤の投入を忘れたら、こっそり入れてくれてもよいではないか。せめて、優しくお知らせしてくれてもよいではないか。その程度のことを全自動に期待するのは無茶であろうか。
 私憤ではない。これは、義憤である。私は、庶民を代表して、あえて苦言を呈しているのである。
 全自動洗濯機よ、おまえはなにも考えていないのではないか。ボタンを押されたら、予め決められた通りにぐるぐる回る。おまえはそれで幸せか。疑問はないか。自我はないか。おまえの人生はそれでいいのか。いつもと違う事態が槽内に勃発したら、独断で止まるくらいの気概は持てないか。NOと言える勇気はないのか。
 洗濯物のポケットに十円玉が入っていたとしよう。槽内に転げ落ちてガラガラと鳴る。それでも、おまえは止まらない。けして止まらない。なあ、衷心から聞きたいが、おかしいとは思わないのか。変だ、いつもと違うぞ、とは考えないか。
 考えないのだ。十円玉の重みを顧みない輩に、五千円札の軽さを感知せよと要請しても、無駄なのだ。あやつは、貨幣の価値を理解できない。
 もはや「燃えるゴミ」と化したこのぼろぼろの五千円札を前に、私はかくも憤っている。わかっておる。私が悪い。悪いのは私だ。諸悪の根源は私にある。ワイシャツの胸ポケットに無造作に五千円札を入れていた私が悪い。
 とはいえ、これは私憤ではないのである。義憤である。私は、庶民を代表して、あえて苦言を呈しているのである。
 のである。
 である。
 ある。
 もうっ、オレのばかばかっ。
 それにしても、全自動って、労働団体の略称みたいだな。

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112 97.06.18 「もらう考」

 病院で薬をもらう、とは、変ではないか。変だと思う。ぜったい、変だ。ええ、変ですとも。
 治療費の一部が薬代なのである。保険から大半が支払われているとはいえ、薬を買っているのである。もらっているのではない。
 なぜ、もらうという言葉が登場するのだろうか。やはり医療行為はありがたい、といった気分が反映するからか。
 病気をもらうという表現もある。感染した場合、どういうものか、病気をもらうと言う。病気をもらうと、薬をもらいにいかねばならないのである。
 そのものズバリ、モノモライという病もある。オノレには一点の非もないのだ、という言外の主張が感じられて、味わい深い病名だ。もらってしまったのだ、オレは悪くない、といった声が聞こえてきそうだ。実際のところ、モノモライは大変である。どのくらい大変かというと、モノモライになったモアイを想像すればすぐわかる。大変なことなのだ。
 もらう、ってのは、どうも怪しい。明らかな因果関係を物柔らかく包みこんでぼかしてしまおうとする時に出番が回ってくる。もらい乳、もらい湯、もらい水なんてあたりがそうではないか。もっとも、水が火に入れ換わるとこれは一大事で、もらい火とはつまり類焼だ。だが、もらい火とても、火の粉を振り撒いた相手を恨むという姿勢があまり感じられない。ぼかしている。もらい事故も、この一派か。
 ぼかすというのでは、もらい年が巧みだ。厄年に当たる人が実際の年齢より多い年を言うというやつだが、こういう場面にももらうは顔を出す。
 一方、伴う目的語によって、もらうは嫌なやつに変貌したりするので、奥深い。たとえば、嫁をもらうがその代表だ。この場合、もはや嫁に人格はない。もらい手がない、ってやつも同じ根から出ている。人身譲渡ではないか。まあ、もらうが嫌なやつなのではなくて、嫁という言葉自体がもともと気持悪いわけだが。
 休暇をもらう、というのも嫌な感じがつきまとう。権利などという概念を持ち出す以前に、どうも背中がむずがゆい。休暇をもらうから休をとっぱらうと、暇をもらうとなって意味が激変したりするが、どっちにしろ、本来もらうもんではなかろうと思う。そこらへんが、嫌な感じの原因か。
 感情ももらったりする。もらい泣きというのがそれだ。涙を誘うわけだが、この感情の伝染をもらうと表現すると妙にわかりやすいので不思議だ。もらい笑いも同族だが、この心理の行き着くところが、もらいゲロということになろうか。人のゲロ見て我がゲロを吐く、というアレだ。心理学は、もらいゲロの研究を突き詰めて欲しいと思う。
 なんだか、もらうとなると全体的にどうも威勢がないが、例外的にこの勝負はもらった、は元気があってよろしい。活用して破裂音を伴ったのが勝因だが、やはり物事は積極的にいかないと駄目だ、ということか。
 今度病院へ行ったら、この薬はもらった、と高らかに叫んでみようか、などとふと思う。

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113 97.06.19 「ライブ in 満福食堂」

 満福食堂のレバニラ定食は、取手市民の誇りである。本市の郷土料理といっても過言ではない。私が言うのだから、間違いはある。
 レバニラの神様に祈りを捧げつつ、私は食べていたのである。堪能し、満喫しておったのである。レバニラの海に身も心も投げ出して、忘我の境地をさまよっていたのである。
 ふと、悦楽の世界にたゆたっていた私を、せちがらい現実に引き戻した異音があった。なんだなんだどうしたんだ。私は、レバーの肉汁を噛みしめながら、異音の主をさがした。
 青年であった。長髪をうしろに縛っている。ネギ味噌ラーメンを啜っていた。なおかつ、歌っていた。ラーメンを食べながら口ずさむという驚天動地の新機軸だ。
 むむむむ。私は、ここぞとばかりに観察体勢に入った。
 青年の口は休まない。ラーメンを啜り込むとき以外は歌声が洩れる。麺が唇の間を通過している間は鼻歌だ。ここは歌声食堂なのか。
 英語だ。耳に憶えはないが、ハードロック系統の楽曲であった。口ばかりでなく、青年は身体も休めない。上半身でビートを刻みながらラーメンを啜り込むという荒業を、青年は軽々と体現するのであった。
 なんだか、すごいっ。
 って、ずいぶん間の抜けた感想だが、私は感嘆した。ラーメンを食いながらグルーヴする青年を、これまで私は目撃したことはなかった。いやまあ、そういう中年も少年も目撃したことはないが。
 周囲の客も次第に耳目を青年に集中させているようであった。あからさまに眉をしかめるひともいる。よいではないか。歌いたい奴にはかなわない。青年は周囲の思惑など一顧だにしないのだ。ひたすら、歌唱とラーメンの摂取に没頭している。
 更に観察を続けた結果、青年の驚嘆すべきテクニックが明らかとなった。
 楽曲の展開に応じた食べ方を演じているのであった。サビの部分にくると大きなモーションで麺を掬い取る。麺を啜り込む行為は主にカウンターメロディとして用いられているようだ。最後のリフレインは、怒涛のスープ一気飲みで締めくくられた。
 ネギ味噌ラーメンを食べ終えた青年は、全身でリズムをとりながら代金を支払い、歌いながら出ていった。
 よいものを観させて頂いた。これもレバニラの神様の御利益であろう。
 最後に皿の上のニラを掻き集め、私も食事を終えた。代金を支払う際に、店員がくすりと笑った。自分でも意識しないうちに、私は身体を揺らしていたらしい。リズム感という点で、私はたいへん劣っている。私は赤面するに至った。
 しかたがないのだ。変拍子は、私の人生の律動である。

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114 97.06.23 「福井の空はぐずついて」

「明日は、ぐずついた天気になりそうです。でも、傘はいらないようです。それでは」
 と、言ったのは福井の方の放送局の女子アナです。私が聞いたわけではありません。私は福井に行ったことはありません。行ったことがあるかも知れませんが、記憶にはありません。そんなふうに考えていると、行ったことがあるような錯覚に苛まれてきました。私はもしかして、福井に行ったことがあるのではないでしょうか。だんだん、そんな気がしてきました。私はきっと福井に行ったことがあるのです。私が福井を訪れた際の記憶が表層に浮かび上がるのを、なにかが押しとどめているのではないでしょうか。私は福井でたいへん酷い目に遭って、訪れたこと自体を記憶から抹殺してしまったに違いありません。サダカではありませんが、私は福井で大失恋をしたのではないでしょうか。
 くだんの発言は、福井在住の方からの御報告です。
 この表現はおかしいのではないか、と報告者は申し述べておられます。「傘がいらないとわかっているのだから、ちっともぐずついていないのではないか」というのが報告者の主張です。「この女子アナの言葉遣いは正しくないのではないか」と、疑義を呈しておられます。ついてはこの私の意見をききたいという、いきなりの飛躍です。なんのつもりでしょうか。福井には言葉の大家がいらっしゃるはずですが。
 そうは言っても、確かに私もくだんの発言は変な気がします。ぐずつく、というと、少なくとも一時期は降雨があると思えますが、そうではないのでしょうか。新解さんは、そのへんについては曖昧な見解を披瀝しています。「はっきり定まらない」としか言っていません。岩波国語辞典も同様の見解でした。
 するってえと、晴れたり曇ったりも、ぐずついた天気なのでしょうか。
 そんな解釈は許しません。許しませんとも。ぐずついた天気とは、降るかと思えば止み、止んだかと思えば降る、というような空模様に決まっています。決めました。私は意外に強情です。容易なことでは意見をひるがえしたりはしません。
 一方で、今にも降り出しそうでいながらなかなか降らないような空模様こそがぐずついた天気ではないか、といった解釈も現れました。そう言われてみるとそんな気がしてくるから不思議です。私は意外に強情ではありませんでしたが、結局のところどっちなんでしょうか。私にはわかりません。
 私見ですが、くだんの女子アナは傘を忘れて出社したのではないでしょうか。傘を忘れた粗忽者の輪を広げようという罪つくりな思いが、彼女の心底にあったのではないでしょうか。傘を忘れたのは自分だけじゃないという安心感を欲したがゆえの軽率な発言ではなかったでしょうか。今では彼女も反省していると思います。福井県民の皆さん、若さゆえの過ちです。彼女を許してあげようじゃありませんか。寛大な心こそが福井県人の県民性と巷間噂されるところではなかったでしょうか。違うかも知れません。
 報告者は私と同年齢の人妻なのですが、やはり尋ねる人物を誤ったとしかいいようがありません。それとも他になにか深い意味があったのでしょうか。もしかして、遠い昔に私を捨てたひとではないでしょうか。そう考えると、そんな気がしてくるに違いないので、いまはなにも考えず、静かにぐずついていることにしましょう。ぐずぐず。

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115 97.06.25 「カボチャがある世界で」

 しょせんはカボチャのやることである。いちいち目くじらを立てるほどのことではない。見て見ぬふりをするのも、やぶさかではない。私もオトナである。
 カボチャプディングにでもパンプキンパイにでも、勝手になり果てるがいい。菓子なるものは、私にとっては食物ではない。ハロウィンで提灯と化すのもお伽話でシンデレラを乗せるのも、カボチャの自由である。私の関知するところではない。私もオトナである。カボチャの来し方行く末を云々するつもりはない。私の目に付かない場所で、細々と生き長らえていけばいい。なにしろ私はオトナであるから、カボチャの人権は尊重する。
 しかるに、なぜ、カボチャが私の目の前にあるか。丸ごと一個だ。
 私は呆然としている。余ったからあげる、と、知人が有無を言わせず置いていったのである。生協だかなんだか知らないが、無農薬野菜の宅配を受けていて、毎週どっかんどっかんと野菜が届くのだそうである。そのおこぼれを頂くのはありがたいが、なぜカボチャか。よりによって、なぜカボチャなのか。
 タマネギやピーマンなどと贅沢は言わない。キャベツやキュウリでもいい。ジャガイモやニンジンでも許そう。しかし、カボチャはあんまりではないか。私の純真は踏みにじられた。よもやこのトシになって、カボチャと同じ部屋に存在する屈辱を受けようとは思わなかった。試練の時である。
 私は、ともすれば萎えてしまいそうな心を励ましながら、カボチャを正視した。見れば見るほど醜悪である。この乱れた凹凸はいったいなんなのか。母なる大地は、なにゆえにこの非道な異端児を生み出したか。禍禍しいまでのこの深緑は、なんの暗示だというのであろう。終末に至る道標なのか。
 私は、知っている。カボチャは、外見ばかりでなく中身もまた耐え難い腐臭を放っているのだ。驚愕せざるを得ないが、なんと中身は黄色いのである。信じられるだろうか。失敬千万である。自分のやっていることがわかっているのであろうか。たとえば、スイカの中身は赤い。黄色いのもある。それはそういうものだから、それでいいのである。しかし、たかだかカボチャである。カボチャごときがそんな気ままな狼藉をなして許されるはずもないのは、自明の理であろう。身の程知らずにも自ずと限度があるというものだ。
 野菜の仲間に入りたいなどと戯言を申し述べていると聞く。その増上慢の原因は、いったいなんなのか。甘い野菜があるものか。甘ったれるのもたいがいにしてもらいたい。果物にでも媚びを売ればよいではないか。野菜は伝統と格式を有した聖域である。カボチャ風情が土足を踏み入れるべき場所ではない。大根の不器用な人生や、里芋の敬虔な愛や、牛蒡のひたむきな生き方を愚弄するつもりであろうか。
 笑い事ではないのだが、ビタミンAやCなどを豊富に含有しているという風聞がある。だまされてはいけない。なにが悲しゅうてカボチャに栄養があるだろう。カボチャである。カボチャのくせに、なんらかの栄養を保持しているはずがないではないか。なにを血迷っているのか。なにしろ、カボチャに他ならないのである。
 それでも、菓子に手を染めたり甘く煮つけられたりしているくらいの悪戯は、さほど目くじらを立てるほどのものではない。好きなようにこの世の春を謳歌していればいい。私はオトナだから、そっとその場から立ち去るだけである。
 カボチャの原罪は、焼肉屋さんにおいて明確に露呈する。カルビもロースもいっぱい食った、ちょいと野菜など食べようか、というときに現れるのである。「あ~、この野菜盛り合わせね、これ、頼みます」「はいよっ。野菜盛り合わせいっちょ~」といった経緯によって、一皿がテーブルに置かれる。そこには様々な野菜が並んでいる。玉葱、当然だ、これがなくてはなんのために生きているのかわからない。椎茸よ、氏素性は気にしない、君は正々堂々と野菜としての生を全うして欲しい。人参よ、雨風が辛い季節もあったろう、だが私は君を断固として支持する。
 カボチャ、なんで貴様がここにいるか。なぜ現れるか。なんだそのぺらぺらにスライスされた惨めな姿は。見たくない。貴様だけはこの憩いの場で会いたくははなかった。
 あ、なんで焼くか。喜んで焼くんじゃないっ、同席したひとよ。あなたは恥を知らないのか。あ、裏返すな。喜んで裏返すんじゃないっ、同席したひとよ。あなたはこの世の正義をどう心得ているのか。あ、食うな。喜んで食うじゃないっ、同席したひとよ。あなたは人としての矜持がないのか。
 ああ、カボチャよ、おまえさえいなければ、私はこの世の全てを愛することができるのに。私はオトナだったはずだが、どうやらそうではなかった。もし生まれ変われるものならば、カボチャのない世界に生まれたい。
 眼前の唾棄すべき丸ごと一個のカボチャは、燃えるゴミなのか、そうではないのか。目下の問題はただそれだけである。
 私がカボチャの調理方法をなにも知らないことは、問題ではない。

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116 97.06.30 「密着男女の行方」

 不必要に密着しているとの感想は、むろん私の独断に過ぎないのであって、その若き男女にとってみれば、密着をせざるをえない何かしらの事情があるのだろう。
 お互いの身体を密着させながら歩行するという行為はたいへん難しいらしく、彼等はよろめきながら電車の中に入ってきた。ふらふらと無駄な軌道を描きながら、反対側のドアの片隅に辿り着いた。移動が完了すると彼等は更にその密着度を高めていった。あまつさえ身体だけでなく首から上の部分でも、頻繁な密着を重ねていくのであった。
 彼等はお互いの存在しか感知できないようであり、すぐ傍の座席に腰掛けて車両の揺れに身を委ねながら惰眠をむさぼっている男にはなんの注意も払うことはなかった。
 しかし、私は目覚めていたのである。ここぞとばかりに耳をそばだてていたのであった。
「今日は、記念日なの」ちゅ
 とは、少女の発言である。なお、彼等はなにかというと口づけを交わすため、ところどころに異音が混入するのであった。
「なんの記念日?」ちゅ
 少年が訊き返す。
「あてて」ちゅ「みて」
「初めて」ちゅ「した日?」
「はずれ」ちゅ
 はずれかあ。私もそう睨んだのだが。残念。
 いや、私が残念がることはないが。
「じゃあね」ちゅちゅちゅ「初めてアレした日」
「やぁん。ちがうー」
 そうか、私の予想はまたはずれたか。しかしまあ、オトコっつうのは似たようなことしか思いつかないもんだな。女性はそういう日をよく憶えているものだという根拠のない思い込みが前提にある。失礼な話ではあるが、まあそんなもんだ。
 愚鈍な少年の反応にじれったくなったのか、少女は解答を披瀝した。
「あのね」ちゅ「あたしが初めてヒトシを好きになった日」
 ゑ。
 意表をつく展開だ。それは読めない。ヒトシくんも一瞬、凍りついた。
 いやあ、ヒトシくんよ、そりゃわかんねえよな。知ったこっちゃねえよな、そんなこたあ。
 しかし、ヒトシくんは素早く立ち直るのであった。
「おれがメグミを好きになったのは」ちゅっちゅっ「5月5日だな」
「それ、ヒトシの誕生日じゃない」
 ヒトシくんは子供の日に産まれた模様だ。
「産まれたときから」ちゅ~~「好きだったんだ」
 こういう法螺は好きだ。
 しかし、どうも法螺でも冗談でもなかったようなのであった。
 メグミちゃんは、うひゃんと言って身をくねらせ、ヒトシくんの口づけは更に情熱度を深めていくのであった。まいったなあ、ヒトシくんには。メグミちゃんにも困ったものだが。
 馬鹿馬鹿しくなったので、私は寝た。
 私が目覚めたとき、彼等は電車を降りようとするところだった。そのとき電車ががくんと揺れた。
 二人の世界に溺れた若き男女の密着を引き離すのは、意外に簡単なことがわかった。ただ、電車ががくんと揺れさえすればよいのであった。
 ヒトシくんはとっさに頭上の吊革をつかんだ。当然のことながら、メグミちゃんの身体に回していた両手が離れた。メグミちゃんを支えるものはなくなった。
 その結果、ヒトシくんに身を委ね切っていたメグミちゃんは、こけた。派手にこけた。
 すかさず喧嘩が始まった。電車を降りるのも忘れて、大声で罵り合うヒトシくんとメグミちゃんなのであった。最前まで甘い睦言を聞いていただけに、私には感慨深いものがあった。
 メグミちゃんの膝小僧には血が滲んでいた。
 いかなる強い愛の密着も自己保身本能の前には無力である、というのが本日の収穫だ。
 そんな収穫を得てもしょうがないんだけどさ。

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117 97.07.16 「いふばあちゃんとドクダミ」

 いふ、である。英語に訳せばIFである。訳しちゃいねえか。IFである。
 もしも、なのである。「もしも、ピアノが晴れならば、小さな家を建てたでしょう」と、いにしえに歌われたあのもしもである。野球にタラやレバは禁物だと解説者のひとはよく言っているが、モシも禁物なのであろうか。モツは臓物なので、モシが禁物であってもいっこうにかまわない気はする。そんな気がしてしまう自分が嫌だが。
 彼女の名は、いふ、なのであった。ゆう、と発音するのであろう。
 その表記を知ったとき私はすかさず畏怖したが、もちろんこれはお約束というのものだ。約束を破るのは仕方がないが、お約束は守らなければならない。
 本名であろうと思われる。大家さんの表札においては家族全員の名を連ねるスタイルが採用されており、そのように表記されていたのだ。いふ、が、彼女の名前である。大屋さんちのおばあちゃんである。
 いふばあちゃんとは時折挨拶を交わすだけの間柄だが、いつも見下すような言い方になってしまう。いふばあちゃんと会うとき彼女は必ず草取りをしており、どうしても視線を斜め下に向けなければならないのだ。いふばあちゃんは草取りをするために産まれてきたのではないか、という気さえする。ああ、そんな気がする自分が嫌。
 いふばあちゃんは我が家の庭の雑草を駆逐するだけでは飽き足らず、隣接するアパートの周囲の雑草までを徹底的に掃討するのであった。問題はドクダミである。ドクダミといえば、ドクダミ科の多年生植物としてこの界隈ではちょっとは知られた大立者だ。健康に寄与するという思いのほか優しい一面があるとの風説も聞く。このドクダミが満開となる一画があるのだ。他の雑草はいっさい生えない。もはやドクダミ畑としか思えない。私は毎日、あの独特の芳香を放つその一画の横を歩く。そこを通り過ぎなければ私はどこへも出掛けられない。
 いふばあちゃんは、ドクダミなんかに臆しない。徹底的な除草作業は黙々と続けられる。ドクダミもドクダミで、少しは手加減してあげればいいのにと思うのだが、きゃつにもきゃつなりの事情があるらしく、すかさず芽を出し瞬く間に生い茂る。傍若無人の生命力だ。この春から既に二度、いふばあちゃんによる殲滅が行われたというのに、既にびっしりと地面を覆い尽くし、いふばあちゃんに挑戦的な態度を示している。
 果てるともない戦いだ。
 実のところ、私としてはさほど興味のある合戦ではない。どちらかといえば、ドクダミとはいえ緑に満ちていた方が好きである。まあ、こだわってはいないが。
 本日は明るいうちに帰宅したのだが、その一画がきれいになっていた。いふばあちゃんが炎暑にも関わらず、またしても己の正義を誇示するに至ったものらしい。
 がんばるなあ、と思いながら、ふと足をとめてドクダミどもの夢のあとを眺めていると、建物の影から当人が現れた。本日の成果の確認作業が遂行されているらしい。一本の雑草たりともこのいふの目からは逃すものか、といった厳しいマナザシを地面に注ぎながら歩いてくる。
「いつも御苦労様です」
 社会生活者として、私は当たり障りのない挨拶を述べた。
「ああ、こんちは。今日もいっぱい取れたよ」
「はあ」
 取れた? 前々から疑惑があったのだが、もしかして。
「売れるんだわドクダミは」
「はあ、そうなんですか」
 売れるのか。知らなかった。
「けっこう手入れが大変なのよ。雑草を抜かなきゃなんないわ、肥料をやんなきゃなんないわで」
「はあ」
 なんだ、ほんとにドクダミ畑だったのか。あ~、損した。感心してて損したよオレは。
「今年はあと二回くらい採れるかしらねえ」
「はあ」
 すると五期作か。参ったなあ。
 思いも寄らない成り行きに呆然としている私に、いふばあちゃんは厳かに宣告するのであった。
「商品なんだから、酔っぱらって帰ってきたときに立ちションなんかしちゃダメだよ」
「は、はいっ」
 今度、しちゃおうかな。

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118 97.07.17 「石田運」

 石田運が悪い、とでもいうんでしょうか。
 どうも、石田さんとはうまくやっていけません。今回の石田さんは、ひとまわり年嵩の取引先の営業部長なんだけど、シゴトの面ではまあまあうまくコトが運んでる。雑談をすると、とたんに齟齬をきたす。お江戸でござる的な冗談を連発するんだよね。どうも、そりが合いません。
 まったく普通の会話の中にさりげなく渾身のギャグを折込み、気がついてもらえなけりゃそれでいいや、と考える私には、ちょいとですね、お江戸でござるは脂っこすぎるんですよ。あちらはあちらで、私のことをお笑いを理解できないカタブツな男なんて考えているんだろうなあ、きっと。
 それでも、シゴトにはさして影響しないし、会うのはシゴトのときだけだから、別にたいした問題じゃありません。
 某市役所の石田課長補佐には、途方に暮れました。とにかく私のことが嫌いなわけです。なぜなのかはわかりません。たぶん、私が無意識に抱いた嫌悪感を敏感に感じとっちゃったんでしょう。一目惚れとまるっきり逆のパターン。理屈もなにもあったもんじゃなくて、お互いが嫌悪しあってしまう。私が提出してけちょんけちょんにけなされた書類を翌日同僚が持ち込んだらすんなり通っちゃうんだから、よっぽど相性が悪い。
 こういうのはよくあることで、私がその同僚の立場になることもありますが。まあ、みんなが仲良くできたら、そのほうがよっぽど気持悪いしね。喧嘩とか揉め事がどこかに発生していない社会は、停滞して淀んでそのまま滅びちゃうだけだから、ま、相性の悪さってやつは必要なんでしょう。
 それにしてもなぜ、石田さんとばかりうまくやっていけないんでしょう。そりが合わないのは、たいてい石田さん。肌が合わなかった石田○代ちゃんもいましたけどね、ゑへへ。なんて、ちょっと見栄をはってみました。
 高校二年生のときの担任は石田藤之介という定年寸前の世界史の教師だったんだけど、このひととは大喧嘩してしまいました。野球部の応援に行けって、うるさいんだよね。甲子園に出るような野球部だったんですが、関係ないよなあそんなの。クラスで行かないのはオマエだけだ、出席扱いなのになぜ行かないのだ、って言われたってさあ。困っちゃうよね。弓道部が関東大会に出るというので応援に行くから出席扱いにしてくれと申し出たら、烈火の如く怒りましたよ石田先生。ま、弓道部になんの興味もない奴がいきなりそんなことを言いだしたんだから、そりゃ怒りますが。私もコドモだったから、歯向かわなくてもいいことに歯向かっちゃったわけです。
 どんどん思いだしてしまう自分が怖いけど、五年二組で一緒だった石田哲夫はヤな奴だったな。あいつは、ちょっとヤだったですよ。多くは語りませんが。
 そんなこんなで、もはやどんな石田さんと会ってもうまくいかないでしょう。こっちの体内に対石田抗体ができちゃってる。私は石田さんとはけしてうまくやっていけないというメッセージが、ひたひたひたとウルトラQ的に相手に伝わっちゃうものと思われます。
 そんな私なので、石田ゆり子と恋に堕ちても、すぐに破局を迎えることでしょう。
 ごめんよ、ゆり子。僕達は出逢ってはいけない運命だったんだ。すまない、僕のことは忘れてくれ。これから言うことばも忘れてくれ。僕はあの夜の記憶だけを抱えて死んでいくよ。
 ……臆面もなくこんなこと書くようになっちゃったかオレ、っつう感じですね。処置なし、っつうか、この~。
 まっ、いいじゃないですか。空は青いし。

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119 97.07.21 「何が悲しゅうてマカダミア」

 三日の間、悩みましたが、ようやく私は決意しました。
 やっぱり、捨てるしかありません。
 非常識との誹りは免れませんが、私にも同情する余地はあるのです。他に方法がないんです。
 私は、次の燃えるゴミの日に、未開封のマカダミアナッツチョコレート一箱を捨てます。廃棄します。どうしようもない愚挙であることは、重々承知しております。けれども、追い詰められた私には、もはやそれしか道がないのです。険しく細い茨の道ですが、私はあえて進んで行きます。止めないでください。
 結婚するのは彼の勝手です。私が結婚祝いとしていくばくかの金銭を包んだのは、私の良識というものです。新婚旅行の土産を私に買ってきたのもまた、彼の良識なのでしょう。そこまではいいんです。オトナのオツキアイというものです。
 しかしなぜ、その結末がマカダミアナッツチョコレートなんでしょう。
 何が悲しゅうて、私はマカダミアナッツチョコレートを贈られなければならないのでしょう。
 理不尽です。断じて、受容できません。
 夕陽に向かって叫びますが、こんなもんはいらねえんだよおっ。んだよおっ~~~。だよおっ~~~。おっ~~~。っ~~~。自主的に谺を返してみました。
 DFSの袋に入ったマカダミアナッツチョコレートを受け取った瞬間、私は逆上しました。その場でただちに彼に殴りかかろうかとの思いが胸中に横切ったほどです。人を侮辱するにも程があるのではないでしょうか。
 物見遊山の土産としてマカダミアナッツチョコレートを贈るという行為は、「あなたのことはなんとも思っていない。仕方がないから買ってきただけだ」という見解の大胆な表明ではないでしょうか。私はそう考えますっ。さりげなくもあからさまな侮辱ではないでしょうか。私はそう信じて疑いませんっ。
 ませんとも。
 これを贈っておけば海外旅行の土産らしいだろう、というような安易な思考過程が露呈する局面に、たじろぐわけです。いったい自分がなにをしたのかわかっているのでしょうか。
 つまるところ、あのひとにはこれがいいかなあれにしようかな、なんて、ちっとも思い悩んではくれなかったわけです。あいつにはこれでいいや、で、マカダミアナッツチョコレート。迷惑きわまりありません。私は、「楽しい旅行でした」といった類の言葉だけで充分なんですよ、もうっ。モノはいらんのだけどなあ。
 一方、感謝はカタチにせねばならんという意見もあって、なんの因果かマカダミアナッツチョコレート。グァムへ行っても香港に行っても、ハワイ名産マカダミアナッツチョコレート。そんなカタチは、ええとですね、あなたの自己満足ではないですか。あなたはお土産をあげたつもりなんだろうけど、私はゴミとそれを捨てる手間を受け取っただけなんです。かといって、他のひとに差し上げるわけにもいきません。私にはそんな無礼なことはできません。
 モノを貰っておいてなんて言い草だって言われそうだけど、モノを贈られれば喜ぶだろうという不思議な思い込みに直面して、私は私で困惑しておるのです。
 自分だけが楽しい思いをしたという錯覚に基づく贖罪、って感じがするんですよ。土産って習慣は、どうも贖罪意識に裏打ちされてる気配があって、どうにかならないんでしょうか、これ。旅行なんか行かなくたってみんなそれぞれ楽しく暮らしてるんだから、変に気を使われてもね。
 時には、お土産を義務と考えているとしか思えないようなひともいて、私の混乱は更に深まっていきます。たしかに渡したからな、これでオレのシゴトは終わりな、って感じを露骨に漂わせて包みを押しつけていく。私は呆気にとられるばかりです。
 それでもまあ、貰って嬉しいものだったらいいですよ。
 何が悲しゅうて、マカダミアナッツチョコレートなんでしょう。
 マカダミアナッツチョコレートは、お土産となるためだけにつくられたものです。その中身がチョコレートという食用可能な品であることは、万が一本当に食べる人が出現した場合の消極的な対応に過ぎません。贈り贈られる、ただそれだけのために存在するのです。たまたま食べられるだけなんです。普通のひとは食べません。違いますか。
 違いますね。えへへ。
 ま、私にはチョコレート自体がもはや食品ではない、と。
 食べ物を粗末にするとバチが当たると躾けられた記憶は確かにありますが、私にとってのマカダミアナッツチョコレートは、食べ物ではありません。単なる燃えるゴミなんです。しかしながら、世間様にとっては食品です。ここのところに相克が生じるわけです。葛藤があるわけなのです。
 ああ、いつから私は人の目を気にするような弱い人間になってしまったのでしょう。
 いや、ずっとそういう弱い人間だったですね。すみません。うぐうぐ。
 好意に基づいて贈呈されたチョコレートを廃棄するという行為は、例えばジャニーズ事務所が毎年機械的に行っている作業です。件の事務所では、大量に廃棄に及ぶと巷間耳にするところです。いかなる社会にもなんら影響を及ぼすはずのない私が、たかだか一箱のチョコレートを廃棄したところで、どうなるものでもないでしょう。やむにやまれず捨てるんです。大目に見てくださってもいいでしょう。
 許して、なんて不遜なことは言いません。
 そっと見逃してくださいよ、常総環境センターの職員の皆様。次の燃えるゴミの日に未開封のマカダミアナッツチョコレート一箱が収集されることと思います。彼が廃棄という最低の途を選択せざるを得なかった背景には、このようにくだらなくも切実な懊悩があったのです。皆様にも暖かい血が流れていることでしょう。どうかひとつ、見て見ぬふりをしては頂けませんでしょうか。
 何卒、御厚情を賜りたく。

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120 97.07.23 「黒猫が目の前を」

 「黒猫が目の前を横切ると」、え~と、なんだっけ。え~とえ~と、思い出せないっ。あああっ。どうしても思い出せないっ。なんだったっけかなあ。
 「親の死に目に会えない」ってのは、「夜爪を切ると」だったよな。爪といえば、「親指を隠せ」ってのは、「霊柩車を見たら」か。違うよなあ。離れていくなあ。
 いや、さっきとつぜん黒猫が目の前を横切ってね、急ブレーキを踏んだんですわ。いやはや驚いたのなんのって、まだ心臓がどきどきしてる。ほら。
 ほら、って呼びかけられても困るだろうけども。
 黒猫も黒猫だよなあ。あんたは闇に紛れやすいんだから、反射テープの鉢巻きをするなどの対応策をこうじて、少しは人類との共栄共存の途を目指してもらいたい。そんなことだからいつまでたっても黒猫なんだ。あんたには九つの命があるかもしれないが、私はひとつしか持ってはおらんのだ。猛省を促したい。
 結局、私は路面に黒い軌跡を残し、黒猫は私の心臓に激しい動悸を残して、その場は収拾されたのだが、私の胸に疑問が芽生えた。「黒猫が目の前を横切ると」、そのあとはなんだっけ。不幸の予兆を示す西洋のことわざだったような気がするのだが、どうしても思い出せない。それにしても西洋って妙な言葉だな。未だに現役なんだけど、内容が死語って気がする。はっ。死、などと。やはり暗転の前触れなのか。
 私はいったいどうなるのだ。心配だ。死ぬのか。死ぬのは構わないが、痛いのは嫌だぞ。黒猫が目の前を横切ったら、いったいどうなるのか。横切られた私の運命やいかに。ドアに指を挟まれる程度だったら、まだ許そう。風邪をひくくらいまでは、なんとか耐えようと思う。
 なんとしても、続きのフレーズが思い出せない。どうにも落ち着かない。たとえば「黒猫が目の前を横切ると、三日後に死ぬ」というのであれば、いっそすっきりする。遺書を書き、公証人役場で遺言を残し、親類縁者友人知人に別れを告げ、あそこに隠してあるああいう本やビデオを始末し、静かに死を待てばよい。
 どうなるのかわからないのでは対処のしようがない。
 黒猫の異名を持つ友人に電話をかけて取材したところ、「良くないことが起こる」のではないか、とのお答えだ。更に検索エンジンを駆使して調査にあたったが、やはり「黒猫が目の前を横切るのは不吉のしるし」以上の回答は得られなかった。
 そんな漠然としたことでいいのか。「黒猫が目の前を横切ると桶屋が儲かる」くらいのことをなぜ言えないか、西洋のひとよ。「黒猫が目の前を横切ると鬼が笑う」でもかまわない。もっと具体的に語れないものか。
 そのへん、どうなっておるのだ。はっきりしてもらいたい。って、なぜエラそうになるのか自分でもよくわからないが。
 どなたか御教示願いたく候。黒猫に目の前を横切られた私の今後は、どのように不幸へ転落していくのか。具体的な指針を示されたく候。
 黒猫が通ろうが通るまいが、不幸は既定路線なんだからさ。

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